プラグマティシズムの問題点(パース)

 プラグマティシズムが記号の知的な意味内容の由来をたどって突き止めようとするのは、熟慮の上での行動という概念だからであり、熟慮の上での行動というのは、自己制御行動にほかならないからである。さて、制御〔過程〕はそれ自体制御されうるし、批判はそれ自体批判にさらされうる。そして、理念的にいえば、このように自己に対する作用は明白な限界をもたず、無限に続いていく。しかし、現実に努力が行われて完結するにいたった一連の過程に、実は始まりもなければ終わりもなかったなどということが、はたしてありうるだろうか。このことを真剣に探求した場合、得られる唯一の結論は、おそらく、そんなことはありえないというものであろう。ここからいえるのは、諸所の信念の中には、知覚的な判断を除いて、原初の信念(つまり当面のところ批判の余地がないがゆえに疑いえない)信念というものがあり、これは一般的で繰り返される性質を有するような類いの信念であるということである。このことは、ちょうど推論の中には当面のところは批判の余地なく、疑いえない推論があるのと同様である。
 ここで、疑念について、読者は次の点を明確に理解しておくことが重要である。まず、正真正銘の疑念の発端は、常に外部にあり、しかもたいていは驚きである。さらには、正真正銘の疑念が人の意思作用のみによって自ずと作り出されるなどということは不可能である。

一般的に言って、肯定と否定の間には、中間領域という、はっきりしない曖昧な概念があるのがわかる。したがって、確定性と不確定性の間にも、中間的な、あるいはどちらにもなりうる生成途上の状態という、はっきりしない、曖昧な概念があるのがわかる。同様の中間領域は、一般性と曖昧性の間にもあるに違いない。

 プラグマティシズムによれば、ある推理能力が向かう結論は未来に言及しなければならない。というのも、推論の結果の意味は行動に言及しているからである。そして、そうである以上推論過程を経て到達した結論が言及しなければならないのは、熟慮の上での行動であり、この行動こそ、制御可能な行動である。だが、唯一制御可能な行動とは、未来の行動に他ならない。過去の中でも、記憶の及ばない遠い過去についていえば、プラグマティシストの理論的主張はこうである。記憶の及ばない遠い過去であるにしても、過去と結びついていると信じられるならば、その過去の意味とは、(他のいかなる信念と同様に)その過去についての信念にしたがって我々は行動すべきであるという考えを、真理として受け容れることのうちにある。かくして、クリストファー・コロンブスアメリカ大陸を発見したという信念は、実際には、〔その信念を基にこれから行動しようとする〕未来に言及しているのである。

プラグマティズムとは何か(パース)

 信念はつかの間の状態ではない。信念とは心の習慣であり、したがって本質的に一定期間継続する。それは、(少なくとも)たいていは意識されない習慣である。他の習慣と同様に、信念は、信念を揺るがす予期せぬ出来事に出会うまでは完全に自己充足的である。疑念の方はこれとまったく逆の性質を有する。疑念は習慣ではなく、習慣を欠いた状態である。しかし、ある習慣を欠いた状態というのは、いやしくもそれが何か重大なものであるかぎりは、活動が不安定な状態であり、やがては何らかの方法である習慣に取って代わらなければならない。
 合理的な思考をする人間であるなら、疑いを抱くことのない事柄は数多くある。そのうちの一つは、人は習慣を持つだけでなく、自分の未来の行為に対しては自己制御する手段を行使しうるということである。しかしながら、その意味するところは、未来の行為が恣意的にどのような行為にもなりうるということではない。それどころか、自らの将来に備える過程で(ある行為が生ずる場合)、その行為は傾向的にいってある一定の性質を帯びることになる。この性質がどのようなものになるかを表す、あるいは、大づかみに見積もる基準は、行為の後で反省したときに、後悔の念がない(もしくは無視される)ということである。さて、行為後の、このような反省は、次の機会の行為に対する準備段階を構成することになる。したがって、行為が何度も繰り返されるにつれ、当の行為は一定の性質の完成へと無限に近づく傾向を有する。そして、その性質がはたして完成済みの一定の性質であるかどうかは、当の行為を後悔することがまったくないということで明らかになる。行為の性質の完成領域に近づけば近づくほど、行為を自己制御する余地はなくなる。そして、自己制御が起こりえないところには、いかなる後悔もない。

 ここで、極めて重要な二つの事柄を確認し、念頭においておきたい。第一に、一人の人間と言えども、人間は、他に依存しない孤立した個人ではないということである。人間の思考内容とは、その人が「自己に対して語りかけている」事柄、つまり、時間の流れの中で、まさしく、自分の中に立ち現れる第二の自我に対して語りかけている事柄である。人が論理的に思考するとき、その人が語りかけて説得しようとしているのは、批判的に思考する自我である。そして、あらゆる思考はすべて記号であり、大部分は言語的性質を有する。第二に念頭に置くべきことは、社会という人間の集まりは、(どれほど広義に、あるいは狭義に解釈しようと)ある意味、緩やかにつながれた人格なのであって、何らかの点で、一人の有機体としての個人的人格よりも高次な人格という性質を有する。以上の二点によってのみ、いささか抽象的で単純な意味であるが、絶対的真理、および、人が疑っていない事柄、この両者の区別が可能となる。

別の観点から考えてみましょう。理にかなった意味は実験のうちにある、これがプラグマティシストの考えであるのは、おっしゃる通りです。しかし、先ほど、そのようにいわれた際、実験のことを過去の出来事と解釈していましたね。これでは、プラグマティシストの心の態度を完全に把握し損なっています。実際のところ、理にかなった意味の在処は、実験自体ではなく、実験〔によって何度も再現されうる〕現象です。たとえば、実験者が、〔自然科学上の〕「ホール現象」「ゼーマン現象」とその修正、「マイケルソン現象」別名「チェス盤現象」といった現象について語るとき、それは、過去において、一定の条件を満たしさえすれば、将来、誰にでも、必ず起こりうることを語っているのです。

 さらに看過してはならない事実があります。それは、プラグマティシストの格率は、他と切り離された個別の実験や個別の実験現象について語ることはないということです(というのも、ある条件が満たされたなら、未来において真であるとわかることが、他と切り離された個別のものであるはずがないからです)。つまり、プラグマティシストの格率が語っているのは、実験現象とはいっても、あくまで一般的な類いの実験的現象だということです。プラグマティシズムの信奉者は一般的対象全般のことを、あえて実在的と語ることに、ひるみはしません。何であれ、真なるものは、実在だからです。自然法則は真です。

 あらゆる命題の意味は未来のうちにあります。いかにして、そうなのでしょうか。あらゆる命題の意味は、それ自体がまた一つの命題です。 ありのままにいえば、この新たな命題は、当初の命題の意味をなす、そういう命題なのであって、それ以外の何ものでもありません。つまり、命題の意味とは命題の解釈されたものということになります。とはいえ、ある命題は解釈されて無数の形を取ることになるでしょうが、こうした形の中で、その命題の真の意味と呼びうる形とは、どのようなものなのでしょうか。プラグマティシストにしたがうなら、それは、当の命題が人間の行動に適応可能になる場合の形です。つまり、あれこれの特殊な環境においてではなく、また、あれこれ特殊な意図を心に抱く場合でもなく、あらゆる状況における自己制御に対して、そして、あらゆる目的に対して、最も直接的に適応可能な形なのです。そういうわけで、プラグマティシストは、命題の意味を未来において突き止めるのです。未来の行動こそが、自己制御の下にある唯一の行動だからです。

 実際のところ、一般性というのは、実在に不可欠な構成要素です。というのも、規則性を何ら持たない単なる個々の現実存在あるいは現時点の事実性は、無価値だからです。混沌は純粋に無でしかありません。
 いかなるものであれ、真の命題が言明していることは実在的です。この場合、実在的というのは、それについてあなたや私がどう考えているかにかかわらず、現にある通りにあるという意味です。さてここで、このような命題を、未来に関する一般的な仮言命題として考えましょう。この命題は、人間の行動に実在的に影響を及ぼすようになっているわけで、実在的で一般的な命題です。そして、プラグマティシストは、このような命題を、あらゆる概念の理にかなった意味内容であると考えます。
 したがって、プラグマティシストは最高善が行為のうちにあるとは考えません。そうではなくて、最高善は進化の過程のうちにあるのです。現に存在するものは、この進化の過程によって先に述べたような意味で、あらかじめ運命づけられた一般的なものを次第に実現していきます。実に、これこそが、一般的なものを理にかなっていると呼ぶことで、我々が表現しようとしている事柄なのです。進化の過程が進めば進むほど、進化の過程は、ますます大々的に自己制御を通して展開していくことになります。そうであるからこそ、プラグマティシストは、理にかなった意味内容を一般的であると考えるわけです。

アンリ・ベルクソン「創造的進化」序

 人間的知性を不活性な諸対象、もっと特化して言うなら諸個体のなかに置くかぎり、人間的知性は我が家にいるように感じること。個体のうちに、われわれの行動はその視点を、われわれの器用さはその仕事道具を見出すのだ。また、われわれの論理学は諸個体の論理学であるということ。まさにそれによって、われわれの知性は幾何学において勝利を収めるということ。幾何学においては、論理的思考と惰性的物質との親近性があらわになるし、そこでの知性はその自然な動きに従いさえすればよい。経験とのありうべき微かな接触の後、知性は発見につぐ発見をなすことになるのだが、その際、経験が自分に後続し、変わることなく自分の理を認めてくれるだろうとの確信を抱いている。
 しかし、そこからまた単に論理学的な形式のもとでは、われわれの思考は、生の真の本性、進化の運動の深い意味づけを表象できないということも帰結するはずである。われわれの思考はすでに規定された諸事物に働きかけるために、ある一定の条件下で、生によって創造されたのだから、生の一つの流出物ないし一つの側面にすぎない。にもかかわらず、どうしてわれわれの思考が生を包摂するというのか。進化の途上で、進化の運動によって置き去りにされたわれわれの思考がいかにして進化の動きそのものに適用されるというのか。

 生体を何らかの枠組みに押し入れても無駄である。あらゆる枠組みが破裂してしまう。それらは、生体をわれわれがそこへ置こうと欲するにはあまりにも狭く、あまりにも硬直している。

 思弁するために、あるいは夢見るために生まれた精神について、わたしは、この精神が実在性の外にとどまり、精神が実在性を歪曲し、変形し、それを想像しさえするのを認めうるだろう。通り過ぎる雲のなかにわれわれの想像力が人間たちと動物を想像するのと同様に。けれども、これからなされる行動ならびに、それに続くであろう反作用に向かいつつ、その対象に触れてそこから動く印象を不断に受け取ろうとする知性、それは絶対的なものの何かに触れるところの知性である。われわれの思弁はいかなる矛盾につきあたり、いかなる袋小路に行き着くのか、それを哲学がわれわれに示さなかったとすれば、われわれの認識のこの絶対的価値を疑問視するなどという考えがいつかわれわれに訪れたりするだろうか。

 分岐していく他の数々の道にあって意識の他の諸形式が発展した。人間知性がそうしたように、外的拘束から解放されることも、自存性を取り戻すこともできながったが、それでも、進化的運動に内在する本質的な何かを表出するところの諸形式が。これらの形式を比較し、続いてそれらを知性と融合させることで、今度は生命と拡がりを同じくする一の意識が獲られるのではないだろうか。この意識がその背後に感じる推力へと突如として振り向くことで、それは生命の相対的ヴィジョンーおそらくそれがすぐさま消え去るものだとしてもーを獲得できるのではないだろうか。

創造的進化 (ちくま学芸文庫)

創造的進化 (ちくま学芸文庫)

「システム理論入門 ニクラス・ルーマン講義録〈1〉」

 構造形成の特殊性は、まず反復しなくてはならない、つまり何らかの状況を他の何かの反復として認識しなくてはならないということにあるようです。すべてがいつも完全に新しければ、何かを学ぶことなど決してできないでしょう。そして、もちろんすべてのことはいつも完全に新しいのです。みなさんの誰もが、今日は前の時間とは違って見え、他の椅子に座り、違った様子で眠ったりノートをとったりしています。具体的に見るならば、どの状況も比較不可能です。にもかかわらず、例えば顔が再認されるというほとんど正確には記述できないこの現象があるのです。みなさんが誰かを再認するのは何にもとづいているのかを知ろうと欲したり、あるいは再認している誰かを記述しなくてはならないとしたら、再認そのものの場合よりももっと困難でしょう。みなさんは、よく新聞に出ている犯人のモンタージュ写真をご存知でしょう。それらはさまざまな苦労をしてコンピュータの助けを借りてそうした記述から出来ているのですが、再認はその他の点では通常すみやかに機能します。また循環的な論証になってしまうのですが、そもそも再認ができるためには、わたしたちは再度の認識ができなければなりません。、つまり、わたしたちは二通りのことをできなくてはならないのです。第一に、同定できなくてはなりません。古典的な言い方では、本質メルクマールやまたは同一性の手がかりを再度認識できなくてはなりません。そして第二に、状況の異種性にもかかわらず、そしてたびたびのかなりの程度の偏差にもかかわらず同一性を再び利用できるという意味で、一般化ができなくてはなりません。わたしたちはまず、何ものかへの制約ないし圧縮と関わっています。そして同時にそのことに条件づけられて再びまたある一般化と関わっています。ここで一般化というのは、まったく異なった文脈で、そしてしばしば何年たった後でも同一の人間を再度認識できたり、言語において同じ単語を別の文で別の日に別の音声で夜ではなく朝になどの状態で使用するにもかかわらず再度使用できる、などの意味でです。
もっと逆説的な表現を使うと、この論理はつぎのことを裏づけているように見えます。同定と一般化、特定と一般化の継続的テストは、心的システムかコミュニケーション・システムのなかだけで行われる、システムに固有のパフォーマンスでしかありえない、ということです。このコミュニケーションシステムがもし機能しないならば、わたしたちは決して言語を習得できないでしょう。一つの単語は、どの文のなかで話されるかに応じてきわめて多様な意味指示をもちます。ですから、単語や標準化された身振りは多様な効果をともなうのですが、それにもかかわらず反復可能であり別の文脈でも使用可能なわけで、コミュニケーションシステムは、こうした単語や身振りを用いているのです。そしてわたしたには、特定と一般化のこの両義性ないしパラドクスが、こうしたことがシステムのなかでのみ展開しうることの根拠であるように思えます。

 情報が定義されるあり方をよりくわしく見てみると、人はつねにある驚きと関わり、多くの可能性からの選択と関わっていることがわかります。人がある文を語る時、語りうる多くの文からの選択がなされていますし、すでに言われたものによって限定されています。たとえば誰が勝って誰が負けたとか、誰かが病気のために出場できないといったスポーツの情報を新聞から得るとき、人はもともとそのようなことがことが起こりうることを知っているあるコンテクストと関わっています。こうしたことがいつ起こるか、誰が勝って誰が負けるかを前もってい知ることはできませんが、テニスプレイヤーがサッカーの試合で勝つことはありえません。このように情報の選択地平はつねに何らかの仕方で限定されていて、通常は狭く規定されているものですから、その情報を理解する前にすべての可能性にふれる必要はありません。そこで重要なのは、つねに二つの事柄です。つまり、その可能性を限定する背景と、それ以外には問題にならない、それに適合した選択です。
このことはまた意味概念についても述べたように、意味概念と情報との区別を促します。というのは、情報とは選択の際の一種の不意打ちだからです。情報が繰り返されると、残る情報はたかだか、情報が繰り返されることが必要だと誰か考えることだけです。軍隊における命令の場合、兵士は言われたことを繰り返されなければなりませんが、その際の情報とは、彼がその命令を理解したかどうか、そしてその通りに行動したかどうか、その指示にしたがったかどうかであり、それはいつでも情報でありえます。しかし、人はつねに新しい予期のコンテクストを構築し、新しい縮減を先取りしなければなりません。

 みなさんが思い出されることは、システムというものが、つねに作動からなりたち、システムがどのようにして新しい作動を現実化できるのか、そのかぎりで、成立するということでしょう。システムはいつもただそのつどの現実的な作動の現在性のなかでのみ、したがって複雑化されたときにのみ、また心的システムの場合は、ただ注意が活性化されたときのみ、成立するのです。 わたしたちのテーマにとっては、構造が利用される場合、構造もまたともかく現実的である、ということです。そこには地平ーいわば理念的世界が、あるいは進行する出来事の存在に資する不変的なもの、自己自信から立ち現れた安定性を有する地平ーは、もはやありえません。作動のみが現実性として存在します。そしてつぎに現れる問題は、ある作動がどのように他の問題に続いて現れるのかということであり、そこには構造に関係する機能があります。ある作動がどのようにして、つぎの適切な作動を見出すのでしょうか。あるいはどのようにして作動自体が、与えられた出発点の位置において自分自身を作り出すのかということです。ある作動が過去のものとなり、それがもはや現実的でない場合、別の作動はまだ現実でなく、それは未来です。その場合、構造の現実性はそれが長い時間する存在のモードということではありません。むしろ構造の現実性は、それが時間となるということ、利用されるということのなかにあります。構造が利用されるとき、それは存在するのです。このことはまずもってシステム理論が構造と機能へと分割されるということから取り出される結果です。構造と過程とがあるのではなく、システムは、システム自身が現実化される、そうした作動のタイプによって形成されます。そして構造において発生させられ、必要となり、想起され、再び利用されたり、あるいはされなかったりする事柄はこの当該システムにおける諸作動の呼び出しと呼び戻しに左右されます。システムというものが二つの構成要素成分のタイプ、つまり一方では出来事と過程、他方では構造から同時に組み立てられると考えるならば、システムの統一性についてのより明確なイメージをもち、そのつどの作動に関係しーわたしたちの場合はコミュニケーションですがー、人々が抱くような困難はありません。
したがって、構造は作動の回帰的ネットワーク化のシステムにおいて利用されるコピーであるといえるでしょう。作動は、過去をさかのぼって把握し未来を前もって把握します。進行している確かな状況の中で、目下それに適合していること、選択的な記憶および達成したいもの、あるいは生起する出来事に対応するイメージをもっています。
このことは、わたしたちがつぎのような問題を抱えているということを意味しています。すなわち、どのように回帰、反復、つまり先取りと後撮りとが、ある個々の作動の同一性の構成要素として処理されるのか、という問題です。前もって進行し、そして終了する事柄と関連する事前の方向づけに関係したならば、どのようにして一つの命題、司令、依頼、言表、一定の状況下での確定にいたるのでしょうか。その場合、構造はそのつどのシステムにおける回帰的な方向付けの恒常的な活動の一括コピーですーつまり、一瞬ごとに流動し更に進むこと、過程を進めること、システムのさらなる作動に情報と方向指示を提供することに役立つものです。

システム理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈1〉 (ニクラス・ルーマン講義録 1)

システム理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈1〉 (ニクラス・ルーマン講義録 1)

チャールズ・サンダース・パース「4つの能力の否定から導かれる諸所の帰結」

 いかなる蓋然的立論においても、その妥当性に不可欠な知識というものがある。そうした知識が欠如している場合、ある問いに関わっていることになる。そしてその問いの有様は当の立論自身によって限定を受ける。その問いとは、他のすべての問いと同様、特定の対象が特定の性質を持っているのかどうかというものである。ここから、そうした知識の欠如には、二つの場合があることになる。第一に前提により特定の性質を持っている対象があるとして、このとき、この対象以外の他の対象も同じ特定の性質を持つことがあるのか。第二に、前提により特定の対象に固有の性質があるとして、このとき、当の対象の要件であるとはかぎらない他の性質が同じ対象に属するということはあるのか。第一の場合、推論過程は、あたかも特定の性質を有する対象すべてが知られているかのように展開されていく。そして、これが帰納である。第二の場合、推論過程は、あたかもある対象もしくはクラスが有する傾向特性に不可欠の性質がすべて知られているように展開していく。そして、これが仮説形成である。

 仮説形成の機能とは、統一体をなしているわけではない諸所の属性が厖大な系列をなしているとして、この系列に変わって、これら属性をすべて含み、かつ、(おそらく)その他の無数の属性をも含むような単一(もしくは、ごく少数)の属性で代用することである。仮説形成は、それゆえ多様性の単一性への還元である。

 一つの概念として現れている心の状態を考えてみよう。心の状態が一つの概念でありうるのは、意味、つまり、論理学でいう内包をもつことによる。概念というものが、何らかの対象に対して適用可能だとすれば、それは、対象が、当の概念の内包に含まれる特性を有するからである。ところで、ある思考の論理学内包は、通常、その思考の中に含まれる思考から成り立っている。しかし、諸所の思考は出来事であり、心の様々な作用である。二つの思考は、時間の流れの中では別々の出来事である。したがって、一方の思考が他方の思考の中にあるなどということは、全く不可能である。もちろん、人によっては、まったく似通った思考が複数ある場合、これらをすべて一つの思考とみなし、あるいは、ある思考が別の思考を含むということを、他の思考とまったく似通った思考を含むという意味で解す向きもあろう。だが、二つの思考が似ているというのは、いったい、どのようにして可能なのか。二つの思考が似ているとみなされるのは、両者が心の中で比較され、一緒にされる場合のみである。思考というものは心の中以外には存在しない。心の中にあるとみなされる場合にのみ、思考は存在するのである。したがって、二つの思考は心の中で一緒にされないかぎり、似たものとしてあるなどということはありえない。しかし、二つの思考の存在ということになると、その二つは、時間の隔たりによって、別々のものとなっているわけである。我々は、ともすれば、過去のある思考と似た思考を創り上げることが出来ると創造しがちである。その上で、今の思考を過去の思考に組み合わせ、あたかも、この過去の思考が今なお我々の心に残存していると考えてしまう。しかし、考えてみれば明白なはずである。ある思考が別の思考と似ている、あるいは、それを表しているという認識は、無媒介な直接的知覚からは導き出しえないのであって、このような認識は一つの仮説形成と言わねばならない。したがって、このような表象機能を有する思考の形成は、意識の背後にある実在的で有効な力に依存しているのであって、単に心の中での比較対象に依存するわけではない。それゆえ、ある概念が別の概念に含まれると我々がいうとき、その意味するところは、通常一方の概念を他方の概念によって表象するということでなければならない。いいかえれば、概念間の包摂関係が意味しているのは、我々が、ある特殊な判断を形成し、その判断の中で、主語に一方の概念を指示させ、述語に他の概念を指示させるということにほかならない。

 思考は、それ自体では独特のものなのである。他のいかなるものともまったく比較できないものは、すべて、まったく説明不可能である。というのも説明とは、事物を一般的諸法則の下に、あるいは、自然界の諸所の類いの下に包摂することだからである。

 今現れている実際の思考(つまり無媒介な単なる感じ)などというものにはいかなる意味もないし、いかなる知的価値もない。というのは意味や価値は、実際に思考されている事柄の中にはないからである。意味や価値の在り処は、表象機能が作用している場合、後続する思考によって何かと結びつけられることになる。意味や価値の在り処は、この結びつけられる事柄の中なのである。

 直接的で無媒介なもの(したがって、それ自体では媒介を被らない-つまり、分析不可能なもの、説明不可能なもの、理解不可能なもの)は、我々の生涯を通じて、一つの連続的な流れをなして通り過ぎていくのである。この流れが意識の総計なのであり、これを媒介することが、すなわち意識の連続性をなすのであり、この媒介は、意識の背後にある実在的な効力によって、作用するのである。

 我々が見出すのは、注意というものが、実際のところ、後続する思考に対して絶大な影響を及ぼすということである。第一に、注意は記憶に強い影響を及ぼす。当初払われた注意が強ければ強いほど、思考が記憶に残る期間も長くなる。第二に、注意が強ければ強いほど、後続する思考との結合が密接になり、思考の論理的連結が正確になる。第三に、注意によって忘れてしまった思考を想い出すことができる。こうした事実からわかるのは、注意とはある時点の思考を別の時点の思考と結びつける力だということである。あるいは、記号としての思考という概念を援用していうなら、注意とは、ある〈思考-記号〉の純粋指示用法なのである。

 注意が生ずるのは、同じ現象が異なる機会に繰り返し現れるとき、つまり、同じ述語属性が異なる主語に繰り返し現れるときである。たとえば、Aが何らかの性質を持ち、Bが同じ性質を持ち、そしてCも同じ性質を持つ、こうした事態を我々は目にする。このことが我々の注意を惹きつけ、その結果、我々は「これらのものはこの性格を持っている」と述べるわけである。こうしてみれば、注意とは帰納の作用ということになる。

 注意は神経系に影響を及ぼす。こうした影響は習慣、あるいは神経連合である。ある習慣が生まれのは、どういうときかといえば、たとえば、mという何らかの作用がa,b,cという複数の機会に遂行されるという感覚を我々が経験し、その後でこれらa,b,cを特殊ケースとして含む一般的出来事lが起こるたびに、我々はmという作用を行うようになる場合である。すなわち「a,b,cいずれの事例もmの事例である」という認識によって、「lという一般的事例いずれの場合であってもmの事例である」という認識が限定されるわけである。かくして、習慣形成とは一つの帰納であり、したがって、必然的に注意もしくは抽象と結びついているのである。

ジル・ドゥルーズ「襞―ライプニッツとバロック」第4章

第4章 十分な理由

アリストテレスが事前と事後とよんだもの、つまり先行性は、ここに時間の秩序がないけれども、複雑な観念であることが予感される。定義するもの、あるいは理由は定義されるものに先行しなければならない。それらが定義されるものの可能性を決定するからである。しかし、これはもっぱら「力能」[可能体]にしたがってのことであり、行為[現実態]にしたがってではない。反対に後者は、定義されるものの先行性を前提とするからである。まさにこのことから相互的包摂が生じ、あらゆる時間的関係は不在となる。

 述語とは、「旅の実現」であり、一つの行為、運動、変化であり、旅するものの状態ではないのだ。述語とは命題そのものである。「私は旅する」を「私は旅するものである」に還元できないように、「私は考える」を「私は考えるものである」に還元することはできない。思考とは恒常的な属性ではなく、一つの思考から別の思考へのたえまない移行としての述語なのであるから。

 述語が動詞であるということ、そして動詞が繋辞と属詞に還元できないということ、これこそはライプニッツの出来事の概念の基礎なのである。

 ついでライプニッツが出来事に関する第二の偉大な論理を作り出す。世界そのものが出来事であり、非物体的(=潜在的)述語として、一つの地にほかならないそれぞれの主語の中に包摂されているにちがいない。そこから各々がその観点に対応する様式を抽出するのだ(もろもろの想)。世界とは述語化そのものでああり、もろもろの方式は特別な述語であり、主語は世界の一つの相から別の相へと映るように、一つの述語から別の述語へと移るのだ。

 ライプニッツは厳密にいえば、運動に内的な統一性、あるいは能動的である変化の統一性、諸実態の位階から単なる広がりを排斥するような統一性を、実体について要求する。  なされている運動は、次にくる状態が「自然の力によって自発的に現在から」出てくるという意味で、瞬間における統一性にかかわり、またその持続の全体にとっての内的統一性にかかわる(実体の物理的指標)。そしてさらに根本的には、質的な変化は、一つの状態が瞬間の中を通過するようにし、その通過の全体を可能にする能動的な統一性にかかわるのである(心理的指標、知覚と欲求)。実体とはしたがって、出来事としての運動と、述語としての変化という二重の自発性を代表する。もし実体に関する真の論理的指標が包摂であるとしたら、それは実体が属性の主語ではなく、一つの内的統一性であり、一つの変化の能動的統一性だからである。

 スープを飲んでいるとき棒でたたかれる犬の魂において、乳を飲んでいるとき蜂に刺される赤ん坊だったシーザーの魂において、苦痛は自発的だといえるだろうか。しかし棒や蜂の一撃を受けるのは魂ではない。抽象されたものに執着するのではなく、諸系列を再構成しなければならない。棒の一撃とともに始まるのではない。背後から棒をもった男が近づいてきて、犬の体を打ちのめそうとして棒を振り上げたのである。この複雑な運動は一つの内的統一性をもっている。つまり苦痛は唐突に快楽に引き続いたのではなく、無数の小さな知覚によって用意されていた。足音、敵対する人間の匂い、振り上げられる棒の印象、要するに感覚されていない「あらゆる不安」の全体があり、苦痛はそこから「自発的に」生じることになるのだ。まるで先行するもろもろの変容を統合する自然の力によるように。

ジョセフ・ラズ「権利の性質について」(3)

続き
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七 権利と利益

 権利は権利保持者の利益に根拠づけられているが、個人は自らにとって不利益となるような権利を有することもありうる。たとえば、自己の所有する財産が、その価値以上に不利益をもたらすこともある。ある人が、自由に対する権利を有している場合であっても、投獄されることがその人の利益となる場合もあろう。この難問の説明によれば、権利が権利保持者に与えられるのは、次の理由によってである。つまり、権利保持者が、ある約束の受益者であるとか、ある国家の国民であるといったような、一定の一般的特性を有しているからである。彼らの有する権利は、このような諸特性をもつ諸個人の利益の一つ一つには役立つけれども、彼らの持つ利益全体には反するということがありうるのである。

 利益は権利の正当化の一部であり、権利は義務の正当化の一部である。権利は、究極的な価値から個々の義務を導き出す際における論証の、中間的な結論である。いわば、権利は、多くの考慮が工作し、また必要であれば付加的な前提とともに、その考慮の帰結が要約されるような、論証の中間点なのである。これらの中間的結論は、あたかもそれ自体が完全な理由であるかのようにして用いられ、言及されるのである。実践的議論は、このような中間的段階の介在を通して進み、したがって実践的問題が生じるたびに、いつもわれわれは解答を求めて究極的価値に言及するわけではないという事実は、社会生活を営む上において極めて重要な事柄である。というのは、そのことによって、たんに時間の浪費や煩わしさがなくなるだけでなく、究極的な価値についての極度の曖昧さや不一致にもかかわらず、各人が共有している中間的結論を中心にして、共通の文化を形成することを可能とするからである。

 ある権利がいかなる義務を生み出すかは、部分的にはこの権利の基礎すなわちこの権利の存在を正当化する諸考慮に依拠している。それはまた、互いに衝突する考慮が存在しないということにも依拠する。したがって、もしもそのような諸考慮によって、ある権利主張の根拠が他者に義務を課すには十分でないことがあきらかにされたならば、その権利はそんざいしないということになる。しかし、このような互いに衝突する諸考慮によって、ある権利主張をもとに一定の行為を義務として要求することはできないということが十分に示されるとしても、それ以外の行為を義務として要求する場合には、その諸考慮は影響を与えないということがしばしばある。このような場合権利は存在しているが、この権利は、その基礎となる利益を促進しうるような、一定の行為のための義務をうまく根拠づけることができるのである。

八 権利と義務

 たとえば教育を受ける権利といったような権利のもっている含意や、その権利が根拠づける諸義務は、それ以外の前提によって左右されるもので、したがってこれらの内容をあらかじめ完全なかたちで確定しておくことは、原則としてできないということである。少なくとも、未来のことを前もって完全なかたちで知ることは原則としてできないとすれば、予測されていなかった新しい義務を生み出す状況が、将来に置いて存在しうるのである。たとえこのような義務が予測不可能ではないにしても、教育を受ける権利が有するすべての含意を予測することは原則として不可能なのである。
 このゆえに、権利は、動的な性格を与えられうる。権利はたんに、現存する義務の根拠ではない。それは、状況の変化に応じて、新しい諸義務をも生み出すことができるのである。

九 権利の重要性

 あらゆる権利は、利益を基礎にしている。また、権利のなかには、まさしくその権利を有する事自体に存する利益に基礎を置くものもある。ある権利を有すること自体に存する利益に基礎を置くものもある。ある権利を有すること自体がXの利益であるがゆえに、Xはその権利を有しているという主張にはなんら循環論法は含まれていない。それは、ジルはジャックの愛を必要としているからジャックはジルを愛している、という言明が循環論法でないのと同様である。多くの場合、個人が権利そのものに対してもっている利益は、彼にこの権利を付与することを正当化しない。この権利が、彼(あるいは他者)のこれ以外の価値ある利益に奉仕しているということが必要なのである。たとえば、教育を受ける権利に対する私の息子の利益が、彼にこの権利を付与するのを正当化するのは、その権利が、教育を受けることの彼の利益に奉仕するからだけなのである。

権威としての法―法理学論集

権威としての法―法理学論集