社会理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈2〉(2)

つまり、現実はただ一つであるにもかかわらず、言語という装置がこのように二重化されているのはなぜか、という点です。わたしたちが入室してすし詰めの状態になっていようとなかろうと、この講義室はこの講義室です。いかなる否定形の講義室も存在していません。いかなる否定形の現実も存在しませんし、今日の言語学において想定されているような、いかなる否定形の世界も存在しません。否定は言語的な作動です。このことはわたしがそこから出発したくだんの想定を再び指し示します。すなわち、言語の構造はコミュニケーションと結びついたものであり、したがってシステム内部において利用されるものであるという想定です。そう考える場合に、言語の二重化は一つの意味を持ちます。システムと環境の分離に関連した意味です。イエス型の言述をノー型において二重化するのは、システム内部における営みであり、この営為がシステム内部へ向けて投影しようとするのは、システムの外部にある何ものかではありません。この営為はあたかも世界がいわばイエス型もしくはノー型の世界として現存しているかのように、世界の状態を代理表象しているわけではありません。そうではなく、イエス型ないしノー型の代理表象は、明らかに言語自体がもつ可能性であり、したがって問題は、それは何のために、ということになります。このように現実を二重化することはいかなる機能を有しているのか。わたしは、これはオートポイエーシスの様態に関連していると考えます。同一の言述をめぐって語り手に対してイエス型の可能性ならびにノー型の可能性が提供され、その際に当該の言述、すなわちテーマは同一のものにとどまらなければならないとする場合、言語は適応するための弾力性とでもいうべきものを獲得することになります。

言述の意味は同一でありながら、伝達者がそのときどきに何を伝達しようとするか、それを了解した対応者がそれに対する応答として何を表現しようとするかに適応するかたちで、言語の形式が選択されるのです。わたしの考えるところ、イエス/ノー型のコード化は、コミュニケーションの継続可能性に関連しており、それぞれの状況においてコミュニケーションが継続しうることを保証する本質的な可能性の一つです。わたしたちはそれを行う意思がないとき、ノーと言うことができます。このことに示される自由さの度合いとはどれほどのものであるのか、これが第二の問いです。この問いには後ほど立ち返ります。何よりもまず了解されうるのはノーという語です。わたしたちは、このノーを、言語によって正確に表現することができます。このとき文法は何ら妨げにはなりません。このノーによって各々の心理的な反応、つまり、各々の状況の分節化を把握し、それをさらなるコミュニケーションへと導くことが可能になりますノーと言われるとき、それは、このノーという反応を受けてつぎになしうることに向けた諸帰結を有しています。
 このコード化の型は、言語は了解によって終結するという観念と関連しています。わたしたちが何ごとかを述べた場合、それを受けて述べられることは肯定ないし否定されえます。しかし、こうした肯定や否定は、次なる作動、すなわち、わたしたちが理解した内容に接続するコミュニケーションの継続なのです。伝達内容を受容することは、コミュニケーションの要素に含まれないということ、これは大きな射程をもったテーゼです。このことをもってわたしは、このテーゼが明らかになると主張したいと思います。伝達内容の受諾あるいは拒絶は、言語それ自身を通して確定されるものではなく、コミュニケーションという出来事の一部分を構成するものではありません。むしろ受諾や拒絶とは、述べられたことや了解されたことに対して、いかにつぎの一手を接続していくかという問いかけなのです。あらゆる発言は、わたしが意思するかぎり、複雑性を縮減します。あなたが何ごとかを確信することによって。わたしがまさに他ならぬこれを述べることによって。こうしてメディアは一つの形式に転じます。しかしその際、次の瞬間にはあらゆることが再びオープンの状態になります。その形式が受け容れられるか否か、その命令が従われるか否か、わたしが抵抗に遭うか否か、わたしの見解が信じてもらえるか否か、それらすべてがオープンの状態になるのです。たとえば、システム理論に賛成するか反対するか、それはいつでも新たに決定することができます。これは、オートポイエーシスが絶えず繰り返して自己を更新している状態です。オートポイエーシスが選択肢を狭めること、英語のナローウィング・オブ・チョイス、つまり特定の何ものかに確定することを取り扱うときに、当の何ものかがそれに先立つものからおのずと生じうるようには取り扱わないことによって、オートポイエーシスの更新は行われます。わたしたちは、何らかの文が述べられたときに、それに対して、いかなる任意の文をもいうことができるわけではありません。わたしたちは先行する文に適合するような何ごとかを述べなければなりません。こうした文のやりとりに関わり合う場合、典型的には相手方の言述を受諾あるいは拒絶することが含意されています。