アンリ・ベルクソン「創造的進化」序

 人間的知性を不活性な諸対象、もっと特化して言うなら諸個体のなかに置くかぎり、人間的知性は我が家にいるように感じること。個体のうちに、われわれの行動はその視点を、われわれの器用さはその仕事道具を見出すのだ。また、われわれの論理学は諸個体の論理学であるということ。まさにそれによって、われわれの知性は幾何学において勝利を収めるということ。幾何学においては、論理的思考と惰性的物質との親近性があらわになるし、そこでの知性はその自然な動きに従いさえすればよい。経験とのありうべき微かな接触の後、知性は発見につぐ発見をなすことになるのだが、その際、経験が自分に後続し、変わることなく自分の理を認めてくれるだろうとの確信を抱いている。
 しかし、そこからまた単に論理学的な形式のもとでは、われわれの思考は、生の真の本性、進化の運動の深い意味づけを表象できないということも帰結するはずである。われわれの思考はすでに規定された諸事物に働きかけるために、ある一定の条件下で、生によって創造されたのだから、生の一つの流出物ないし一つの側面にすぎない。にもかかわらず、どうしてわれわれの思考が生を包摂するというのか。進化の途上で、進化の運動によって置き去りにされたわれわれの思考がいかにして進化の動きそのものに適用されるというのか。

 生体を何らかの枠組みに押し入れても無駄である。あらゆる枠組みが破裂してしまう。それらは、生体をわれわれがそこへ置こうと欲するにはあまりにも狭く、あまりにも硬直している。

 思弁するために、あるいは夢見るために生まれた精神について、わたしは、この精神が実在性の外にとどまり、精神が実在性を歪曲し、変形し、それを想像しさえするのを認めうるだろう。通り過ぎる雲のなかにわれわれの想像力が人間たちと動物を想像するのと同様に。けれども、これからなされる行動ならびに、それに続くであろう反作用に向かいつつ、その対象に触れてそこから動く印象を不断に受け取ろうとする知性、それは絶対的なものの何かに触れるところの知性である。われわれの思弁はいかなる矛盾につきあたり、いかなる袋小路に行き着くのか、それを哲学がわれわれに示さなかったとすれば、われわれの認識のこの絶対的価値を疑問視するなどという考えがいつかわれわれに訪れたりするだろうか。

 分岐していく他の数々の道にあって意識の他の諸形式が発展した。人間知性がそうしたように、外的拘束から解放されることも、自存性を取り戻すこともできながったが、それでも、進化的運動に内在する本質的な何かを表出するところの諸形式が。これらの形式を比較し、続いてそれらを知性と融合させることで、今度は生命と拡がりを同じくする一の意識が獲られるのではないだろうか。この意識がその背後に感じる推力へと突如として振り向くことで、それは生命の相対的ヴィジョンーおそらくそれがすぐさま消え去るものだとしてもーを獲得できるのではないだろうか。

創造的進化 (ちくま学芸文庫)

創造的進化 (ちくま学芸文庫)