プラグマティズムとは何か(パース)

 信念はつかの間の状態ではない。信念とは心の習慣であり、したがって本質的に一定期間継続する。それは、(少なくとも)たいていは意識されない習慣である。他の習慣と同様に、信念は、信念を揺るがす予期せぬ出来事に出会うまでは完全に自己充足的である。疑念の方はこれとまったく逆の性質を有する。疑念は習慣ではなく、習慣を欠いた状態である。しかし、ある習慣を欠いた状態というのは、いやしくもそれが何か重大なものであるかぎりは、活動が不安定な状態であり、やがては何らかの方法である習慣に取って代わらなければならない。
 合理的な思考をする人間であるなら、疑いを抱くことのない事柄は数多くある。そのうちの一つは、人は習慣を持つだけでなく、自分の未来の行為に対しては自己制御する手段を行使しうるということである。しかしながら、その意味するところは、未来の行為が恣意的にどのような行為にもなりうるということではない。それどころか、自らの将来に備える過程で(ある行為が生ずる場合)、その行為は傾向的にいってある一定の性質を帯びることになる。この性質がどのようなものになるかを表す、あるいは、大づかみに見積もる基準は、行為の後で反省したときに、後悔の念がない(もしくは無視される)ということである。さて、行為後の、このような反省は、次の機会の行為に対する準備段階を構成することになる。したがって、行為が何度も繰り返されるにつれ、当の行為は一定の性質の完成へと無限に近づく傾向を有する。そして、その性質がはたして完成済みの一定の性質であるかどうかは、当の行為を後悔することがまったくないということで明らかになる。行為の性質の完成領域に近づけば近づくほど、行為を自己制御する余地はなくなる。そして、自己制御が起こりえないところには、いかなる後悔もない。

 ここで、極めて重要な二つの事柄を確認し、念頭においておきたい。第一に、一人の人間と言えども、人間は、他に依存しない孤立した個人ではないということである。人間の思考内容とは、その人が「自己に対して語りかけている」事柄、つまり、時間の流れの中で、まさしく、自分の中に立ち現れる第二の自我に対して語りかけている事柄である。人が論理的に思考するとき、その人が語りかけて説得しようとしているのは、批判的に思考する自我である。そして、あらゆる思考はすべて記号であり、大部分は言語的性質を有する。第二に念頭に置くべきことは、社会という人間の集まりは、(どれほど広義に、あるいは狭義に解釈しようと)ある意味、緩やかにつながれた人格なのであって、何らかの点で、一人の有機体としての個人的人格よりも高次な人格という性質を有する。以上の二点によってのみ、いささか抽象的で単純な意味であるが、絶対的真理、および、人が疑っていない事柄、この両者の区別が可能となる。

別の観点から考えてみましょう。理にかなった意味は実験のうちにある、これがプラグマティシストの考えであるのは、おっしゃる通りです。しかし、先ほど、そのようにいわれた際、実験のことを過去の出来事と解釈していましたね。これでは、プラグマティシストの心の態度を完全に把握し損なっています。実際のところ、理にかなった意味の在処は、実験自体ではなく、実験〔によって何度も再現されうる〕現象です。たとえば、実験者が、〔自然科学上の〕「ホール現象」「ゼーマン現象」とその修正、「マイケルソン現象」別名「チェス盤現象」といった現象について語るとき、それは、過去において、一定の条件を満たしさえすれば、将来、誰にでも、必ず起こりうることを語っているのです。

 さらに看過してはならない事実があります。それは、プラグマティシストの格率は、他と切り離された個別の実験や個別の実験現象について語ることはないということです(というのも、ある条件が満たされたなら、未来において真であるとわかることが、他と切り離された個別のものであるはずがないからです)。つまり、プラグマティシストの格率が語っているのは、実験現象とはいっても、あくまで一般的な類いの実験的現象だということです。プラグマティシズムの信奉者は一般的対象全般のことを、あえて実在的と語ることに、ひるみはしません。何であれ、真なるものは、実在だからです。自然法則は真です。

 あらゆる命題の意味は未来のうちにあります。いかにして、そうなのでしょうか。あらゆる命題の意味は、それ自体がまた一つの命題です。 ありのままにいえば、この新たな命題は、当初の命題の意味をなす、そういう命題なのであって、それ以外の何ものでもありません。つまり、命題の意味とは命題の解釈されたものということになります。とはいえ、ある命題は解釈されて無数の形を取ることになるでしょうが、こうした形の中で、その命題の真の意味と呼びうる形とは、どのようなものなのでしょうか。プラグマティシストにしたがうなら、それは、当の命題が人間の行動に適応可能になる場合の形です。つまり、あれこれの特殊な環境においてではなく、また、あれこれ特殊な意図を心に抱く場合でもなく、あらゆる状況における自己制御に対して、そして、あらゆる目的に対して、最も直接的に適応可能な形なのです。そういうわけで、プラグマティシストは、命題の意味を未来において突き止めるのです。未来の行動こそが、自己制御の下にある唯一の行動だからです。

 実際のところ、一般性というのは、実在に不可欠な構成要素です。というのも、規則性を何ら持たない単なる個々の現実存在あるいは現時点の事実性は、無価値だからです。混沌は純粋に無でしかありません。
 いかなるものであれ、真の命題が言明していることは実在的です。この場合、実在的というのは、それについてあなたや私がどう考えているかにかかわらず、現にある通りにあるという意味です。さてここで、このような命題を、未来に関する一般的な仮言命題として考えましょう。この命題は、人間の行動に実在的に影響を及ぼすようになっているわけで、実在的で一般的な命題です。そして、プラグマティシストは、このような命題を、あらゆる概念の理にかなった意味内容であると考えます。
 したがって、プラグマティシストは最高善が行為のうちにあるとは考えません。そうではなくて、最高善は進化の過程のうちにあるのです。現に存在するものは、この進化の過程によって先に述べたような意味で、あらかじめ運命づけられた一般的なものを次第に実現していきます。実に、これこそが、一般的なものを理にかなっていると呼ぶことで、我々が表現しようとしている事柄なのです。進化の過程が進めば進むほど、進化の過程は、ますます大々的に自己制御を通して展開していくことになります。そうであるからこそ、プラグマティシストは、理にかなった意味内容を一般的であると考えるわけです。