「純粋理性批判」第一版の序文

修道院長のテラッソンの次のような言葉がある。「ある本の大きさをページ数によってではなく、その本を理解する時間によって測るなら、多くの本について次のように言えるだろう。『この本がこれほど短くなかったなら、はるかに短かったであろうに』」だが反面、思弁的認識の全体は広範にわたるとはいえ、一つの原理においてつながりあっており、その全面のわかりやすさということに、ここで言われたテラッソンの真意を転用すれば、まったく同様に、次のように言うことができよう。「多くの本は、これほど明瞭になろうとしなかったなら、はるかに明瞭になっていたであろう」と。なぜなら、判明性という補助手段は、たしかに、各部分には役立つとはいえ、読者が全体を速やかに概観できるようにはしてくれず、派手なわりには、全体の区分や体系の骨組みを癒着させ、それを見分けられなくしてしまったあげく、結果として全体を台無しにするからである。ところが、体系の統一性と優秀さを判定するには、その骨組みが肝心なのである。

カント先生さすがっす

純粋理性批判  (上) (単行本)

純粋理性批判 (上) (単行本)