マイケル・オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」

 簡単にいうならば、大学教育が学校教育や「職業」教育と異なるのは、それが「作品」の教育ではなく「言葉」の教育だからであり、それが説明言語(あるいは思考様式)の使用と習得に関わり、処方箋を示す言葉に関係するのではないからである。学校の生徒も熱心に本を読み、そこから知識を得、また自分自身について学び、どう振るまうべきかを学ぶけれども、大学において彼はその同じ本から違ったものをつかむよう求められるのである。彼はたとえばギボンやスタッブズ、ダイシーやバジョット、クラーク・マックスウェルやアダム・スミスを読み、その本が伝える情報が時代遅れであり、その処方箋は頼りにならないし、「職業」教育には役に立たないと考えるであろうが、にもかかわらず、大学教育にふさわしい何かを与えてくれると理解するのである。

 大学は知的遺産が損なわれないように保つのみではなく、不断に失われたものを発見し省みられなかったものを回復し、散逸していたものを集めあわせ、損なわれたものを修繕し、再考し、修理し、再構成し、より理解しうるものとみなし、再発行し、再投資するものである。

 たとえば大学において、科学とは情報の百科事典あるいは自然認識の現状ではない。科学とは現在の活動であり、探求される対象について思考し語る仕方である。同様のことは数学や哲学や歴史にもあてはまる。同様のことは数学や哲学や歴史にもあてはまる。それらは思考様式であり、結果を伝達するだけの死んだ「言葉」ではなく、絶えず探求され、用いられつつある。例えばメンデルの遺伝理論や物質の分子構造、あるいはパーキンソンの法則のように実際上の利益を生み実生活を動かしている原則、学説や理論も、大学においては、さらなる理論的発展のために再投資の価値があるものと考えられており、その再投資はそれぞれの分野の思考表現様式の探求、「言葉」の探求に向けられるのである。

 幾つかの著名な書物(プラトンの『国家』、ホッブズの『リヴァイアサン』、ルソーの『社会契約論』、ミルの『自由論』、ボザンケットの『国家論』)およびこれらほど著名ではない幾つかの論考が政治に関するものとされ、採られるべき政治理論や政治的プログラムや政策を含むものとされ、それらについて研究が進められた。~中略~ 実際、これらの書物が読まれた仕方は、時代遅れの造船学のテキストを読む仕方と現代の選挙声明を分析する仕方の混合といいうる。そしてその結果我々はこれらの書物の政治的奇妙さ(あるいは政治的判断の誤り)にのみ感動し、我々の注意もその政策提言の誤りをほじくり出すか、あるいは逆に現代政治と結びつくものを期待することに限定された。

 また哲学部の学生がカントの『純粋理性批判』を学ぶように(そして大学でカントを学ぶということは、カントの得た結論に精通するということではなく、カントの当面した問題を理解し哲学的議論の何たるかに精通することであるが)、政治学部の学生はホッブズの『リヴァイアサン』やヘーゲルの『法哲学』を読み、哲学的思考の何たるかを学ぼうとするのである。そしてもし政治学の学習が真の説明言語に精通するにふさわしい機会であるとするならば、そうした機会は与えられるべきであろう。「政治学」の学習が「職業」教育から区別され、大学に固有の教育として位置を占めることができるのは、まさにこのようにしてなのである。

 彼らは大学教育における「政治学」が研究科目ではなく「テクスト」の宝庫であり、大学教育は政治を説明する「言葉」をいかに用いるかを学ぶ機会にすぎないことを認めてはじめて真の大学教育が達成される点を、彼らはほとんど理解していない。

 また「哲学」は、思考方法としてではなく、政治の特定の利害を決めつける乱用語となっている。しかし研究を少しさかのぼらせて一片の政治的行為を説明するというのは歴史を「行う」ということではない。それは政治の回顧にふけっているにすぎないのであり、そこには歴史的思考法は適切にはあらわれていないのである。そして、プラトンホッブズヘーゲルやミルの書物の中に、これらの思想家の政治的傾向が求められたり、また「自然法」、「一般意志」、「自由」、「法の支配」、「正義」、「主権」といった、本来哲学的に説明的な概念が、政治家の手にかかって規範的概念に変わってしまったり、更にはその命令的側面しか顧みられない場合には、哲学的思考法を学ぶ機会は失われてしまっている。

 もし我々が学生に次のような問題を論じさせることによって理解度を試そうとするならば、すなわち、ミルは民主主義者であったか、上院はその有用性を失ったか、ガーナでは議会制よりも大統領のほうがよいのではないか、英国は一党制に向っているか、等の質問で学生を試そうとするならば、それはあまり程度の高くない「職業」教育が行われていることを示すのである。

 大部分の人にとって「職業的」用語を用いて政治に関わりそれについて考える楽しみに背を向けることは難しいし、規範的命令と学問的説明はあまりにも混同されやすい。またお好みの政治的立場を支持するために哲学を無視したり、自ら歴史に学ばずに、歴史家の、結論を便宜利用する誘惑には抗しがたい。~中略~にもかかわらず、もし大学で何がされるべきかを我々が認識するならば、政治学における難しさはそれ自体やりがいのあるものとなろう。すなわち、もし我々が、成すべきことは政治ではなく、政治を通して歴史と哲学の「言葉」を用いる仕方を教授し、それと他の表現方法との区別を教えることである、と確認するならば。

増補版 政治における合理主義

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