ライプニッツ「形而上学叙説」

 神のとる道の単純性についていえば、単純なのはもっぱらその手段においてであって、目的ないし結果の点では逆に多様で多彩あるいは豊穣なのである。この単純性と多様性は、一方で建物を造る予算、他方で建物に求められる大きさと美しさの場合と同様に、バランスが保たれなければならない。たしかに神にはなんの費用もかからない。哲学者が仮設をたてて自分の空想世界をこしらえる程度の費用さえいらない。なにしろ神はこの世界を製作するには命令を下すだけでいいのだから。しかしことを知だけにしぼって[費用対効果]を考えると、おのおのの命令ないし仮説が相互にばらばらであればそれだけ多くの支払いが発生することになる。天文学でつねにもっとも単純な体型が選ばれるのに似て、理性は仮説や原理の煩雑さを避けるのである。

 したがって、神がどのようにして世界を想像したにせよ、世界は規則的であり一定の秩序にある、といえるだろう。ところで神はもっとも完全なもの、つまり仮説においてはもっとも単純で、そこから生じる現象に おいてはもっとも豊穣なものを選んだ。幾何学で言えば、作図は容易なのにその特性や結果が驚異的で広大な領域にわたる線分のようなものである。わたしがこうした比喩をもちいているのは、不完全ながらも神の知に類似したものを描き、十分にいい表せないものをなんとかして精神に理解させるところまでもっていきたいからである。
 
 さて私たちが主張しているのは、ある人物にいつか起こるはずのすべてのことは潜在的なしかたでその本性ないしは概念のうちに含まれている、それはちょうど円の特質は円の定義のうちに含まれるのと同様だ、ということである。
 この点について本当に納得させるために、私は結合ないし関連には二種類あるとみなす。一方は、その反対が矛盾を含むような完全に必然的なもので、こうした演繹は幾何学的真理もそうであるが永遠真理において生じる。他方の関連は、「仮定的」にのみ、いわば偶有的に必然的なのであり、その反対が矛盾を含まないわけだからそれ自体では偶有的である。しかもこの結合は、完全に純粋な観念、神の端的な悟性にではなく、神の自由意志と宇宙の連鎖に基礎づけられている。

 じっさいにもし、シーザーという主語と彼の見事な画図という述語との結合を論証できるような「証明」を完遂できる者がいたとしたならば、この者は、シーザーがのちにおこなう独裁性はその基盤を彼の概念ないし本性のうちにもつこと、彼がなぜとどまらずにルビコン河を渡ろうと決意したのか、なぜファルスの戦いに敗れないで勝利したのか、といった根拠がそこに見てとれること、さらに、こうしたことが起こったのは理にかない確実であることを明らかにしてはくれるだろうが、それ自体で必然的であって、その反対が矛盾を含むとはいえないだろう。それはちょうど、神がつねに最善をおこなうのは理にかなっているし確実ではあるけれど、そこまで完全でなくとも矛盾は含まれない、ということと同様である。

 なにしろ自然的にはなにものも精神に外から到来することはありえないので、私たちの魂がなにか伝達される形象をうけとるとか、わたしたちの魂に扉や窓があると考えるのは、私たちの悪い癖なのである。精神はつねに自分の未来の思考すべてを表現し、いずれは判明に考えることをすでに混雑してはいても考えているのであるから、私たちは精神のうちにこれらの形相すべてを、しかもつねにもっていることになる。したがって観念とは、そこから思考が形成される素材のようにしてすでに精神のうちにあるのだから、そもそも精神のうちにその観念のないようなものを私たちが学び知ることなどできはしないのである。
 これこそかつてプラトンが「想起」を提唱しながら鮮やかに考察してみせたことである。[想起と言っても]前世があるといった誤りは一層し、魂が今この瞬間に知り考えることはすでにかつて判明に知っていたし考えていたにちがいない、などと思い描かないようきちんと把握するならば、この説はじつに堅固なところがある。さらにプラトンはひとりの少年を導くというみごとな実験によって自身の見解を証明してみせた。この少年にはなにも教え告げないで、ただ順序だった適宜な問いをすることだけでもって、いつのまにか不可通約数にかんするきわめて難解な幾何学的真理へと彼を連れていったのである。このことから、私たちの魂はこれらすべてを潜在的には知っていて、真理を認識するためにはただそれに魂を向けるだけでよいのだから、となればすくなくとも私たちの魂はこれら真理が依拠する諸観念をもっていることがわかる。そして真理を諸観念の関係と見るならば、魂はすでにこの真理をもっている、とさえいえるのである。

 そこで、それを解していようがいまいが私たちの魂のうちにあるような表現は、「観念」とよんでいいだろう。それに対して、私たちが解したり形成したりする表現を「概念」とよぶことができるだろう。しかしだからといって、私たちの概念すべてが外部といわれる感官に由来するなどということは、それをどのようなしかたで解するとしてもつねに誤りであるといわざるをえない。というのも、私が私自身や私の思考についてもっている概念、いうなれば存在や実体、作用や同一性、その他多くのものについての概念は、内的な経験に由来するからである。

 私たちにはたらきかける外的な原因は神の他には存在せず、わたしたちのたえざる神への依存ゆえに神だけが私たちに直接交渉するものである。したがって、私たちのたえざる神への依存ゆえに神だけが私たちに直接に交渉するものである。
 私たちがこのように魂のうちにあらゆるものの観念をもっているのは、ただひとえに神の私たちへの継続的なはたらきによるもので、それはつまり、結果はおしなべてその原因を表現するからであり、つまるところ私たちの魂の本質とは、神の本質、思考、意志の、そして神の本質に含まれているあらゆる観念の一定の表現であり模倣ないし似姿であるからにほかならない。そこで、神のみが私たちの外に存在する私たちの直接的対象であり、私たちは神を介してすべてのものを見ると言えるだろう。
 こうした考えは何も今にはじまるわけではない。これは以前にも指摘したことだと思うが、聖書であるとか、またアリストテレスよりもプラトンにしたがっていた教父たちもそうであったが、その後スコラの時代の多くのひとびとによっても、神こそが魂の光であると考えられていて、彼らによれば神は「理性的魂の能動知性」なのである

 たしかに魂が何かを思考するとき、じっさいになにかしらの影響を受けはする。しかし、魂がこのように影響を受けることができるのも、あらかじめ受動的力をもっているからで、しかもこの力は最初から規定されているわけだが、この受動的力のほかにも魂は能動的力をもっていて、この力のおかげで、魂は一定の思考が未来に産出されるという徴としかるべきときにそれが算出されるという素質とを、その思考のうちにすでにもつことになるのである。そしてこの思考が含意している観念は、これらの力全体に含まれている。

形而上学叙説 ライプニッツ−アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー ら 7-1)

形而上学叙説 ライプニッツ−アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー ら 7-1)