可能と現実ーアンリ・ベルクソン

進化の各瞬間の根本的な新しさを見損なう学説の底には、数多くの誤解と多くの誤謬が存在する。しかしとりわけ、可能なものは現実のものより少なく、したがって事物の可能性はその現実性に先立つという考えがそこにある。 この考えによれば、事物は前もって表象され、実現に先立って思考されることになる。しかし、真実はその反対 である。純粋に数学的な法則に服し、持続に食い込まれないがゆえに孤立させることが可能な閉鎖系を別にすれ ば すなわち具体的な実在の全体、いや単に生命の世界を考えても、ましてや意識の世界を考えるならば、継起する諸状態の各々の可能性にはその現実性よりも多くのものが あるということが見いだされる。なぜなら、可能なものとは、すでに生じた現実の像を過去へ投げかえす精神の働きを、現実のものに加えたものでしかないからである。

 たとえば、明日の大きな演劇作品をどう考えられますか」と言うのである。そこで私が「もし明日の大きな演劇作品がどんなものかわかれ ば自分で書き ますよ」と答えたときの相手が浮かべたその驚きを、私はいつまでも忘れることがないだろう。 私によくわかったのは、可能なものを入れておく何だか 知らない戸棚のようなものに将来の作品がちゃんと収納されていると相手が考えていることだった。私がもう長らく哲学に関係しているからには、その戸棚の鍵を哲学でもって手に入れているはずだというのである。そこで私は彼に言ってあげた。「しかし、あなたの言われる作品はまだ可能ではありませ んよ」。──「でも、やがて実現される以上は可能でなければならないでしょう」。──「いいえ、可能ではあり ませ ん。せいぜい可能であっただろうということが言えるだけです」。──「それはいったいどういうことです か」。──「ごく簡単なことことですよ。才能のある人か天才が出現して作品を創造する。するとその作品が現実のものとなり、そのことによって回顧的あるいは遡及的にこの作品が可能になるということです。その人が出現しなければ作品は可能にならず、可能だったということにもなりません。ですから、その作品は今日可能であったということには なるでしょうが、まだ可能ではないと私は言うのです」。──「それは少し言いすぎです。あなたは未来が現在に影響を与えるとか、現在が過去に何かを持ちこむとか、行為が時の流れをさかのぼって後ろにしるしを付けるとか言うのではないでしょうね」。──「それは場合によりけりです。現実のものを過去に挿入して時間のなかを後ずさりして仕事ができるなどとは、私は決して主張したことがありません。しかし、可能なものを過去のなかに宿らせることができるというか、可能なものが自分からあらゆる瞬間に過去のなかへ入りこむ ということは疑いをいれません。予見のできない新しい現実が創造されるにつれて、その現実の像は自分の背後にひかえている際限のない過去のなかに反映されるのです。それによって現実はいつでも可能であったということになるのです。しかし、現実がいつでも可能で あったということになりはじめるのはまさにその瞬間においてであり、したがって私は現実の可能性はその現実性に先行せず、現実があらわれてから先行していたことになると言ったのです。つまり、可能なものというのは過去に映った現在のまぼろしです。私たちは未来がやがては現在になることを知っていて、まぼろしは絶え間なく生じているので、明日の過去となる今の現在のなかに明日の像がたとえまだとらえられていなくても、そこにすでに含まれていると思うのです。これがまさに錯覚なのです。

思考と動き (平凡社ライブラリー)

思考と動き (平凡社ライブラリー)

 

社会理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈2〉(2)

つまり、現実はただ一つであるにもかかわらず、言語という装置がこのように二重化されているのはなぜか、という点です。わたしたちが入室してすし詰めの状態になっていようとなかろうと、この講義室はこの講義室です。いかなる否定形の講義室も存在していません。いかなる否定形の現実も存在しませんし、今日の言語学において想定されているような、いかなる否定形の世界も存在しません。否定は言語的な作動です。このことはわたしがそこから出発したくだんの想定を再び指し示します。すなわち、言語の構造はコミュニケーションと結びついたものであり、したがってシステム内部において利用されるものであるという想定です。そう考える場合に、言語の二重化は一つの意味を持ちます。システムと環境の分離に関連した意味です。イエス型の言述をノー型において二重化するのは、システム内部における営みであり、この営為がシステム内部へ向けて投影しようとするのは、システムの外部にある何ものかではありません。この営為はあたかも世界がいわばイエス型もしくはノー型の世界として現存しているかのように、世界の状態を代理表象しているわけではありません。そうではなく、イエス型ないしノー型の代理表象は、明らかに言語自体がもつ可能性であり、したがって問題は、それは何のために、ということになります。このように現実を二重化することはいかなる機能を有しているのか。わたしは、これはオートポイエーシスの様態に関連していると考えます。同一の言述をめぐって語り手に対してイエス型の可能性ならびにノー型の可能性が提供され、その際に当該の言述、すなわちテーマは同一のものにとどまらなければならないとする場合、言語は適応するための弾力性とでもいうべきものを獲得することになります。

言述の意味は同一でありながら、伝達者がそのときどきに何を伝達しようとするか、それを了解した対応者がそれに対する応答として何を表現しようとするかに適応するかたちで、言語の形式が選択されるのです。わたしの考えるところ、イエス/ノー型のコード化は、コミュニケーションの継続可能性に関連しており、それぞれの状況においてコミュニケーションが継続しうることを保証する本質的な可能性の一つです。わたしたちはそれを行う意思がないとき、ノーと言うことができます。このことに示される自由さの度合いとはどれほどのものであるのか、これが第二の問いです。この問いには後ほど立ち返ります。何よりもまず了解されうるのはノーという語です。わたしたちは、このノーを、言語によって正確に表現することができます。このとき文法は何ら妨げにはなりません。このノーによって各々の心理的な反応、つまり、各々の状況の分節化を把握し、それをさらなるコミュニケーションへと導くことが可能になりますノーと言われるとき、それは、このノーという反応を受けてつぎになしうることに向けた諸帰結を有しています。
 このコード化の型は、言語は了解によって終結するという観念と関連しています。わたしたちが何ごとかを述べた場合、それを受けて述べられることは肯定ないし否定されえます。しかし、こうした肯定や否定は、次なる作動、すなわち、わたしたちが理解した内容に接続するコミュニケーションの継続なのです。伝達内容を受容することは、コミュニケーションの要素に含まれないということ、これは大きな射程をもったテーゼです。このことをもってわたしは、このテーゼが明らかになると主張したいと思います。伝達内容の受諾あるいは拒絶は、言語それ自身を通して確定されるものではなく、コミュニケーションという出来事の一部分を構成するものではありません。むしろ受諾や拒絶とは、述べられたことや了解されたことに対して、いかにつぎの一手を接続していくかという問いかけなのです。あらゆる発言は、わたしが意思するかぎり、複雑性を縮減します。あなたが何ごとかを確信することによって。わたしがまさに他ならぬこれを述べることによって。こうしてメディアは一つの形式に転じます。しかしその際、次の瞬間にはあらゆることが再びオープンの状態になります。その形式が受け容れられるか否か、その命令が従われるか否か、わたしが抵抗に遭うか否か、わたしの見解が信じてもらえるか否か、それらすべてがオープンの状態になるのです。たとえば、システム理論に賛成するか反対するか、それはいつでも新たに決定することができます。これは、オートポイエーシスが絶えず繰り返して自己を更新している状態です。オートポイエーシスが選択肢を狭めること、英語のナローウィング・オブ・チョイス、つまり特定の何ものかに確定することを取り扱うときに、当の何ものかがそれに先立つものからおのずと生じうるようには取り扱わないことによって、オートポイエーシスの更新は行われます。わたしたちは、何らかの文が述べられたときに、それに対して、いかなる任意の文をもいうことができるわけではありません。わたしたちは先行する文に適合するような何ごとかを述べなければなりません。こうした文のやりとりに関わり合う場合、典型的には相手方の言述を受諾あるいは拒絶することが含意されています。

社会理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈2〉

二分コードとは次のようなものです。あることは真か偽かのいずれかである、あるものはわたしの所有物であるか所有物でないかのいずれかである。彼または彼女はわたしのことをほんの少しだけ愛している、あるいは愛しているときもあれば愛していないときもあるといったことは、少なくとも厳格な愛のコードでは想定されていません。愛しているのかいないのか。そのような二者択一が持続するのは、ほんの一定期間だけなのかもしれませんが、それでもその期間は、この「一方か他方か」が妥当します。こうしたコードにおいて典型的なのは、何らかの中間状態が排除されていることです。メディア理論が、受容される可能性が低くなるという想定、何らかの意味提起が受け容れられる可能性が低くなるという想定と結びついていたことを、みなさんは覚えていらっしゃるでしょうが、このような想定がなされる世界はいわばアナログ的世界です。つまり、そこでは一歩一歩の違いをはっきり識別することができず、せいぜいより多いか少ないかが区別できるだけで、しかもそれすらコミュニケートしようとする者があらかじめ見積もることは難しいといった世界です。どれくらいの人がわたしに賛同してくれ、どれくらいの人が賛同してくれないのか。こうしたことをあらかじめ予想することは困難です。ところが、メディアによるコード化は、こうした事態を二つの抽象的な値へと変換します。一方か他方か、イエスかノーか、肯定的か肯定的でないか。このようなほとんどサイバネティクスのような言い方をすることではっきりするのは、これをアナログ形式からデジタル形式への変換であるということです。つまり、ゆっくり連続的に増えたり減ったりするという変化の仕方から、第三の可能性を排除した二者択一への変換です。このような二者択一の利得は、決定が強要されるようになることと、二者択一―あることは真か偽か、あるものはわたしのものかわたしのものでないか―の方が、どちらかといえば肯定的、どちらかと言えば否定的という意見よりは、容易に意思が伝わりやすいという点にあるのではないでしょうか。このことはまた、二分コードにおいては学習過程が進行する、あるいは、答えはどちらかといえばイエスだろう、どちらかといえばノーだろうという見当がつきやすくなるような追加的な仕組み、補足、プログラムが発達すると思ってよいということも意味します。肯定的/否定的という、いわば無内容な値によってなんらかのシステムがコード化され、コミュニケーションのなかでそのシステムが流通しはじめると、ある状況においてあることがどちらかといえば肯定的にみられることになりそうか、あるいはどちらかといえば否定的にみられることになりそうか、そうした状況判断を助けるような仕組みが発達するだろうと期待してかまいません。そしてこうした構造ができることで、システムの構築が進みます。つまり、ますます複雑性が増大するように構造が発展していくということです。

プラトン「メノン」

「蜜蜂にはいろいろとたくさんの種類があって、それらは互いに異なったものであるというのは、それらが蜜蜂であるという点においてそうなのだと、君は主張するのかね?それとも、その点では、それらは互いに少しも異なるものではなくて、何か他の点、たとえば美しさとか、大きさとか、その他そういった何らかの点で異なっているのかね?」

君が挙げたいろいろの徳についても同じことが言える。たとえその数が多く、いろいろの種類のものがあったとしても、それらの徳はすべて、ある一つの同じ(すがた)相(本質的特性)をもっているはずであって、それがあるからこそ、いずれも徳であるということになるのだ。この相(本質的特性)に注目することによって、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが、答えとしての正しいやり方というべきだろう。

「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は何を探求すべきかということも知らないはずだから」―。

すなわち、彼らの言うところによれば、人間の魂は不死なるものであって、ときには生涯を終えたり―これが普通「死」とよばれている―ときにはふたたび生まれてきたりするけれども、しかし滅びてしまうことはけっしてない。

こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを思い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に倦むことことがなければ、ある一つのことを想い起こしたこと―このことを人間たちは「学ぶ」と読んでいるわけだが―そのことがきっかけとなって、おのずから他のすべてのものも発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶということは、じつは全体として、想起するということに他ならないからだ。

こんども気がつくかね、メノン、この子が想起の過程において、すでにどんなところまで、前進しているかを。―最初この子は、八平方プゥスの正方形の一辺がどのような線であるか知らなかった。ちょうどいまもやはりまだ知らないでいるのと同じように。しかしすくなくとも、あのときには、この子はそれを知っていると思いこんでいたのだ。そして、あたかも実際に知っているかのように確信をもって答え、そこに何らの困難も感じていなかった。ところが今では、この子はすでに自分が困難に行きづまっていることを自覚して、知らないままでいる実情のとおりに、また知っていると思い込むようなこともないのだ。

この子の中には、この子がいま述べたようないろいろの思惑が内在していたということはたしかだ。そうではないだろうか?

とすると、ものを知らない人の中には、何を知らないにせよ、彼が知らないその等の事柄に関する正しい思わくが内在しているということになるね?

それは、誰かがこの子に教えたからというわけではなく、ただ質問した結果として、この子は自分で自分の中から知識をふたたび取り出し、それによって知識をもつようになるのではないかね?

しかるに、自分で自分の中に知識をふたたび把握し直すということは、想起するということにほかならないのではないだろうか?

そこで、もしわれわれにとって、もろもろの事物に関する真実がつねに魂の中あるのだとすれば、魂とは不死のものだということになるのではないだろうか。

もし誰かが、ラリサでもほかのどこでもよいが、そこへ行く道をちゃんと知って歩きながら、他の人々を導いていくとするならば、むろんその人は正しく、よく導くことになるだろうね?

ではこういう場合はどうだろう。ある人が、その道を実際に通ったことがなく、ちゃんとした知識をもっているわけではないが、しかしどの道を行けばよいか見当をつけて、その思わくを持っている限りは、知ってはいないが思うところが真実をついているというその状態のままで、導き手としては少しも劣るところがないのだ―それをちゃんと知っている人と比べてもね。

正しい思わくというものも、やはり、われわれの中にとどまっている間は価値があり、あらゆる良いことを成就させてくれる。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから、それほどたいした勝ちがあるとは言えない―人がそうした思わくを原因(根拠)の思考によって縛り付けてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ親愛なるメノン、先にわれわれが同意したように想起にほかならないのだ。そして、こうして縛り付けられると、それまで思わくだったものは、まず第一に知識となり、さらに永続的なものとなる。こうした点こそ、知識が思わくより高く評価されるゆえんであり、知識は縛られるという点において、正しい思わくとはことなるわけだ。

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)

  • 作者:プラトン
  • 発売日: 1994/10/17
  • メディア: 文庫

命題集註解(オルディナティオ)第一巻第三区分 (ヨハネスドゥンス・スコトゥス)

この種[必然的命題]の知に関して言えば、知性は感覚を、[知識の]原因としてではなく、ただ[知識を受け取る]機会としてもつのみである。なぜなら、知性は感覚から受け取られたものなしには単純なものどものの知解[名辞]をもつことができないのであるが、ひとたびそれを受け取ったなら、知性は自らの力によって単純なものどもを一つ[の命題]に組み合わせることができるからである。そして、もしもその単純な観念から見て命題が名証的に真であったなら、知性は自身に固有の力と名辞の力によってその命題を承認するのであって、名辞を外から受け取る際に用いる感覚の力によって承認するのではない。たとえば、知性が感覚から「全体」の概念と「より大きい」という概念を受け取り、そして知性が「すべて全体はその部分より大きい」という命題を組み合わせた場合、知性は自信の力とその名辞の力によってその命題を疑えない形で承認するのであって、「ソクラテスは白い」という命題[偶然的命題]を承認する場合のように、その名辞が実在において結びついているのを見ることによって承認するだけではないのである。否、むしろ私は言う。たとえ名辞を受け取る際に用いる感覚のすべてが誤ったいたとしても、あるいは、それ以上に欺かれやすく、ある感覚は間違っていてある感覚は真であるとしても、知性はこのような原理に関しては欺かれることはないのである。なぜなら、知性は真理の原因であるところの名辞を自身の内にもつからである。すなわち、もし仮に生まれつき盲目の人に、眠っているあいだに奇跡が起こって、彼の心に白と黒の像が刻印され、それが目覚めたあとにまで残っていたなら、その像から抽象を行った彼の知性は、「白は黒ではない」という命題を組み合わせるだろう。そしてこの命題に関して、彼の知性は、たとえ誤った感覚から名辞を受け取っていたとしても、欺かれることはない。なぜなら、彼の知性が到達した名辞の形相的理解は、この否定命題が真理であることの必然的原因だからである。

中世思想原典集成 (18)

中世思想原典集成 (18)

連続性の哲学 第4章因果作用と力(パース)

 なぜ偶然が永久的な変化を生み出すのであろうか。こう問われたとき、われわれの口から自然に出てくる答えは、時間における各瞬間どうしが独立であるためである、というものであろう。変化が生み出されたまさにその時点で、当の変化を生み出さないような特別の理由は存在していないから、というわけである。人が賭け事でナポレオン金貨を得たとすると、彼が賭け事に加わる前にその金貨を失う恐れがなかったのと同様に、得た段階で失う恐れもないはずである。とはいえ、時間の各瞬間が相互に独立であるということを口にしたとたん、われわれはこの考えの不条理さに驚いてしまう。人はさまざまな連続性を、まさに連続性そのものともいうべき時間という眼鏡を通して目にするのであり、この時間の諸部分くらい相互に独立性を欠いたものはないのではないか。たしかに、連続性とは、互いにことなっており、異なり続ける物どうしを一緒にすることから生まれるのであり、したがってそれらはある意味では互いに依存しあっているが、また別の意味では独立であるともいえる。(中略)しかしながら偶然によって生じる結果の永続性は、たしかに時間の各瞬間の独立性に依っている。とすれば、この謎はいかにして解かれるだろうか。
 この謎の答えは次の点にある。すなわち、時間は現在という特別な瞬間において、非連続な点を持つのである。現在という時点のもつこの非連続性が、保存的な作用のもとでは一つの姿を取って現れ、非保存的な作用のもとでは別の姿を取って現れる。保存的作用においては、現在という瞬間は、他のすべての瞬間と絶対的に異なるが、他のすべての瞬間どうしは相対的に異なるだけである。これにたいして、あらゆる非保存的作用のもとでは、過去と未来とは、それがわれわれの意識に現れる通りにに、互いにまったく断絶している。したがって、時間における現在以外の全瞬間は互いに完全に独立ではないのであるが、現在という瞬間のみにおいては非連続性が姿を表す。それは完全無欠な非連続性ではないが、それでもなおある面では絶対的な非連続性である。おそらくすべてのランダムな分布は、時間の中での出来事のランダムな分布というものから発生する。そして充足理由律の不在ということによってしか説明できないものとは、一切の源となるこのランダムな分布のみであり、それは一個の絶対的な第一性をもつ存在である。

 人間のすべての知的発展が可能になったのは、われわれのあらゆる行動に誤りの可能性があるという事実のためである。このことは、よくよく考えてみなければならない重要な事柄である。「過つは人間の性」こそ、われわれがもっとも熟知している真理である。生命の無いものはまったく誤りを犯さない。低級な生物もほとんど誤らない。本能はほとんど無謬である。これにたいして、理性は人間にとって決定的に重要な事柄についての、非常に危なっかしい先導者となる。こうした誤謬の傾向を子細に検討してみると、誤謬は時間のなかでのわれわれの行動のランダムな変動に他ならない、と言うことが分かる。しかし、しばしば見落とされているのは、われわれの知性が育まれ成長するのは、当のランダムな変動によってであるということである。なぜなら、そうしたランダムな変動がなければ、われわれの習慣形成は不可能であり、そして知性とはこの習慣の可塑性のことだからである。

連続性の哲学 (岩波文庫)

連続性の哲学 (岩波文庫)

「スピノザと表現の問題」第4章

 聖トマスによれば、神に帰せられる諸性質は神的な実体と被造物との間の形式の共通性を何ら含意していないが、ただアナロジー、つまり、釣合いあるいは比率の「一致」のみを含意しているのである。神はあるときは被造物において外在的にとどまる完全性を形式的に所有し、また他のときには被造物に形式的にふさわしい完全性を優越的に所有する。ところで、スピノザ主義の重要性は、ここではその問題を転覆させる仕方によって判断されなければならない。アナロジーで処理するたびごとに、われわれはある種の性質を被造物から借用して、それを多義的な仕方であれ、優越的な仕方であれ、神に帰属させる。かくて神は意志と知性、善良さと英知をもつことになる。ただし多義的にあるいは優越的にである。アナロジーは多義性なしにも優越さなしにも済ますことができない。そしてこのことによって素朴な神人同形説と同じくらい危険な、微妙な神人同形説を含むことになる。当然、三角形がもし話すことができれば、神が優越的に三角形であるということになろう。アナロジーの方法は神と被造物に共通な形式があることを否定する。だが、この方法はそれが告発する危険を逃れるどころか、被造物の本質と神の本質とを絶えず混同する。それはあるときは事物の諸性質を神にのみ内在的にふさわしい諸規定に還元して、事物の本質を消し去ってしまう。また他のときには、それは被造物が形式的に所有するものを優越的に神に帰すことによって、神の本質を消し去ってしまう。逆に、スピノザは被造物と神との間の形式の同一性を肯定するが、本質のあらゆる混同を禁じているのである。

 スピノザの方法は抽象的でもアナロジー的でもない。それは形式的な、共通性に基づいた方法である。それは共通概念によって行われる。ところで、共通概念についてのスピノザの理論はまさに属性のこのような規定のうちにその原理を見出している。隠れた理論としてのこの方法に結局名前を与えねばならないとすれば、人はそこに一犠牲の偉大な伝統を容易に認めるであろう。多義性、優越性そしてアナロジーの三つの概念に対する不断の戦いがそこに見出されないならば、スピノザの哲学は部分的に理解不可能なものにとどまると思われるのである。諸属性はスピノザによれば一義的な有の諸形式である。そしてそれらの形式は、「主語」が代わっても、すなわち、無限の有と有限の有とに、実体と諸様態とに、神と被造物とにそれらの形式を述定しても、その本性を変えることはない。
諸属性は無限の有の諸形式であり、無制約的で、究極のそして還元不可能な形式的な根拠である。これらの諸形式はそららがその本質を構成している神にとって、またその固有の形式においてそれらを内含している様態にとって共通である。諸属性は無制約的な性質を表現する言である。そしてこれらの性質は有限の限界のうちに包含されているものとして存在する。諸属性は神の表現である。神のこれらの諸表現は一義的であり、それらは能産的自然としての神の本性そのものを構成し、また諸事物あるいは所産的自然の本性のうちに包含される。そして所産的自然はある仕方で今度はそれらの表現を再表現しているのである。

 従って、スピノザは表現と特質とを区別することができた。出発点はアリストテレス的である。つまり、特質とはある事物に属するものであるが、その事物が何であるかを決して説明しない。神の特質は決して説明しない。神の特質はそれゆえ単に「形容詞」であり、それはわれわれに実体的に何ものも認識させない。神はそれらなしには神ではありえないであろう。だがそれらによって神であるのではない。
 全知、偏在は(思惟、延長という)一定の属性についていわれる特質である。じっさい、あらゆる属性が実体の本質を表現し、おのおのの属性が実体の一つの本質を表現する。だが、特質はなにも表現しない。それはただ形成された本質の様相のみを形成する。無限は実体の特質である。すなわち、実体の本質を構成するおのおのの属性の様相である。全知は思惟する実体の特質である。諸特質は正確にいえば、それらが表現的でないというまさにその理由で、属性ではないのである。

スピノザと表現の問題 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

スピノザと表現の問題 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)