社会理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈2〉

二分コードとは次のようなものです。あることは真か偽かのいずれかである、あるものはわたしの所有物であるか所有物でないかのいずれかである。彼または彼女はわたしのことをほんの少しだけ愛している、あるいは愛しているときもあれば愛していないときもあるといったことは、少なくとも厳格な愛のコードでは想定されていません。愛しているのかいないのか。そのような二者択一が持続するのは、ほんの一定期間だけなのかもしれませんが、それでもその期間は、この「一方か他方か」が妥当します。こうしたコードにおいて典型的なのは、何らかの中間状態が排除されていることです。メディア理論が、受容される可能性が低くなるという想定、何らかの意味提起が受け容れられる可能性が低くなるという想定と結びついていたことを、みなさんは覚えていらっしゃるでしょうが、このような想定がなされる世界はいわばアナログ的世界です。つまり、そこでは一歩一歩の違いをはっきり識別することができず、せいぜいより多いか少ないかが区別できるだけで、しかもそれすらコミュニケートしようとする者があらかじめ見積もることは難しいといった世界です。どれくらいの人がわたしに賛同してくれ、どれくらいの人が賛同してくれないのか。こうしたことをあらかじめ予想することは困難です。ところが、メディアによるコード化は、こうした事態を二つの抽象的な値へと変換します。一方か他方か、イエスかノーか、肯定的か肯定的でないか。このようなほとんどサイバネティクスのような言い方をすることではっきりするのは、これをアナログ形式からデジタル形式への変換であるということです。つまり、ゆっくり連続的に増えたり減ったりするという変化の仕方から、第三の可能性を排除した二者択一への変換です。このような二者択一の利得は、決定が強要されるようになることと、二者択一―あることは真か偽か、あるものはわたしのものかわたしのものでないか―の方が、どちらかといえば肯定的、どちらかと言えば否定的という意見よりは、容易に意思が伝わりやすいという点にあるのではないでしょうか。このことはまた、二分コードにおいては学習過程が進行する、あるいは、答えはどちらかといえばイエスだろう、どちらかといえばノーだろうという見当がつきやすくなるような追加的な仕組み、補足、プログラムが発達すると思ってよいということも意味します。肯定的/否定的という、いわば無内容な値によってなんらかのシステムがコード化され、コミュニケーションのなかでそのシステムが流通しはじめると、ある状況においてあることがどちらかといえば肯定的にみられることになりそうか、あるいはどちらかといえば否定的にみられることになりそうか、そうした状況判断を助けるような仕組みが発達するだろうと期待してかまいません。そしてこうした構造ができることで、システムの構築が進みます。つまり、ますます複雑性が増大するように構造が発展していくということです。