ジョセフ・ラズ「権利の性質について」(3)

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七 権利と利益

 権利は権利保持者の利益に根拠づけられているが、個人は自らにとって不利益となるような権利を有することもありうる。たとえば、自己の所有する財産が、その価値以上に不利益をもたらすこともある。ある人が、自由に対する権利を有している場合であっても、投獄されることがその人の利益となる場合もあろう。この難問の説明によれば、権利が権利保持者に与えられるのは、次の理由によってである。つまり、権利保持者が、ある約束の受益者であるとか、ある国家の国民であるといったような、一定の一般的特性を有しているからである。彼らの有する権利は、このような諸特性をもつ諸個人の利益の一つ一つには役立つけれども、彼らの持つ利益全体には反するということがありうるのである。

 利益は権利の正当化の一部であり、権利は義務の正当化の一部である。権利は、究極的な価値から個々の義務を導き出す際における論証の、中間的な結論である。いわば、権利は、多くの考慮が工作し、また必要であれば付加的な前提とともに、その考慮の帰結が要約されるような、論証の中間点なのである。これらの中間的結論は、あたかもそれ自体が完全な理由であるかのようにして用いられ、言及されるのである。実践的議論は、このような中間的段階の介在を通して進み、したがって実践的問題が生じるたびに、いつもわれわれは解答を求めて究極的価値に言及するわけではないという事実は、社会生活を営む上において極めて重要な事柄である。というのは、そのことによって、たんに時間の浪費や煩わしさがなくなるだけでなく、究極的な価値についての極度の曖昧さや不一致にもかかわらず、各人が共有している中間的結論を中心にして、共通の文化を形成することを可能とするからである。

 ある権利がいかなる義務を生み出すかは、部分的にはこの権利の基礎すなわちこの権利の存在を正当化する諸考慮に依拠している。それはまた、互いに衝突する考慮が存在しないということにも依拠する。したがって、もしもそのような諸考慮によって、ある権利主張の根拠が他者に義務を課すには十分でないことがあきらかにされたならば、その権利はそんざいしないということになる。しかし、このような互いに衝突する諸考慮によって、ある権利主張をもとに一定の行為を義務として要求することはできないということが十分に示されるとしても、それ以外の行為を義務として要求する場合には、その諸考慮は影響を与えないということがしばしばある。このような場合権利は存在しているが、この権利は、その基礎となる利益を促進しうるような、一定の行為のための義務をうまく根拠づけることができるのである。

八 権利と義務

 たとえば教育を受ける権利といったような権利のもっている含意や、その権利が根拠づける諸義務は、それ以外の前提によって左右されるもので、したがってこれらの内容をあらかじめ完全なかたちで確定しておくことは、原則としてできないということである。少なくとも、未来のことを前もって完全なかたちで知ることは原則としてできないとすれば、予測されていなかった新しい義務を生み出す状況が、将来に置いて存在しうるのである。たとえこのような義務が予測不可能ではないにしても、教育を受ける権利が有するすべての含意を予測することは原則として不可能なのである。
 このゆえに、権利は、動的な性格を与えられうる。権利はたんに、現存する義務の根拠ではない。それは、状況の変化に応じて、新しい諸義務をも生み出すことができるのである。

九 権利の重要性

 あらゆる権利は、利益を基礎にしている。また、権利のなかには、まさしくその権利を有する事自体に存する利益に基礎を置くものもある。ある権利を有すること自体に存する利益に基礎を置くものもある。ある権利を有すること自体がXの利益であるがゆえに、Xはその権利を有しているという主張にはなんら循環論法は含まれていない。それは、ジルはジャックの愛を必要としているからジャックはジルを愛している、という言明が循環論法でないのと同様である。多くの場合、個人が権利そのものに対してもっている利益は、彼にこの権利を付与することを正当化しない。この権利が、彼(あるいは他者)のこれ以外の価値ある利益に奉仕しているということが必要なのである。たとえば、教育を受ける権利に対する私の息子の利益が、彼にこの権利を付与するのを正当化するのは、その権利が、教育を受けることの彼の利益に奉仕するからだけなのである。

権威としての法―法理学論集

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