プラグマティシズムの問題点(パース)

 プラグマティシズムが記号の知的な意味内容の由来をたどって突き止めようとするのは、熟慮の上での行動という概念だからであり、熟慮の上での行動というのは、自己制御行動にほかならないからである。さて、制御〔過程〕はそれ自体制御されうるし、批判はそれ自体批判にさらされうる。そして、理念的にいえば、このように自己に対する作用は明白な限界をもたず、無限に続いていく。しかし、現実に努力が行われて完結するにいたった一連の過程に、実は始まりもなければ終わりもなかったなどということが、はたしてありうるだろうか。このことを真剣に探求した場合、得られる唯一の結論は、おそらく、そんなことはありえないというものであろう。ここからいえるのは、諸所の信念の中には、知覚的な判断を除いて、原初の信念(つまり当面のところ批判の余地がないがゆえに疑いえない)信念というものがあり、これは一般的で繰り返される性質を有するような類いの信念であるということである。このことは、ちょうど推論の中には当面のところは批判の余地なく、疑いえない推論があるのと同様である。
 ここで、疑念について、読者は次の点を明確に理解しておくことが重要である。まず、正真正銘の疑念の発端は、常に外部にあり、しかもたいていは驚きである。さらには、正真正銘の疑念が人の意思作用のみによって自ずと作り出されるなどということは不可能である。

一般的に言って、肯定と否定の間には、中間領域という、はっきりしない曖昧な概念があるのがわかる。したがって、確定性と不確定性の間にも、中間的な、あるいはどちらにもなりうる生成途上の状態という、はっきりしない、曖昧な概念があるのがわかる。同様の中間領域は、一般性と曖昧性の間にもあるに違いない。

 プラグマティシズムによれば、ある推理能力が向かう結論は未来に言及しなければならない。というのも、推論の結果の意味は行動に言及しているからである。そして、そうである以上推論過程を経て到達した結論が言及しなければならないのは、熟慮の上での行動であり、この行動こそ、制御可能な行動である。だが、唯一制御可能な行動とは、未来の行動に他ならない。過去の中でも、記憶の及ばない遠い過去についていえば、プラグマティシストの理論的主張はこうである。記憶の及ばない遠い過去であるにしても、過去と結びついていると信じられるならば、その過去の意味とは、(他のいかなる信念と同様に)その過去についての信念にしたがって我々は行動すべきであるという考えを、真理として受け容れることのうちにある。かくして、クリストファー・コロンブスアメリカ大陸を発見したという信念は、実際には、〔その信念を基にこれから行動しようとする〕未来に言及しているのである。