ジョセフ・ラズ「権利の性質について(2)」

続き
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六 権利をもつ能力

 たとえ(同一の)道徳共同体の構成員ではないものに対して義務を有しうるとしても、この義務の履行によって利益を受ける者の利益に、その義務が根拠を有していないとすれば、相互依存テーゼはなお通用しているのである。たとえば、動物に対する私の義務が、動物の利益に基礎をおいているのではなく、私自身の人格に関する諸考慮(たとえば、[動物に]苦痛を与えても平気でいられるような人間であってならない、など)にもとづいているような場合には、私は動物に関して義務を負っているという事実にもかかわらず、動物自身はなんら権利を有していないのである。

 究極的な価値、すなわち派生的でない価値をもつことは、それ自体として本来的に価値をもっていることである。つまり、その手段的な価値とは離れて、それ自体として価値が存在することなのである。
 しかし、それ自体として本来的に価値をもつすべてのものが、究極的にも価値があるというわけではない。

 人と犬のつながりはたんに、精神安定剤としてのみ価値あるようなものではない。この価値は、人と犬のつながりが、飼い主の有意義な人生の不可欠の部分をなすことに存するのである。このような見方に同意するすべての人にとって、犬の存在は、それ自体として本来的に価値があることになる。そして、犬の存在は、このようなつながりにとって論理的な必要条件であり、またこのようなつながりが担う価値を支える条件である。しかし、この設例に関するかぎり、犬が有しているそれ自体としての本来的価値は、飼い主の福利に犬が貢献するという点から導きだされているから、究極的な価値ではない。つまりここでは、飼い主の福利が、究極的価値と解されているのである。

 究極的価値のある福利を有しうるような人々のみが権利を有してうるのと同様に、究極的価値を有すると考えられる利益のみが権利の基礎たりうる、と想定してもおかしくないようにみえる。しかしたんに、手段的価値を有するにすぎないと考えられるような利益を保護している権利も存在する、ということを示す多くの反証事例がある。

 たとえば、ジャーナリストが、報道の際の取材源を保護する(すなわち、取材源を秘匿する)権利(それがいかに制約されているとしても)を例に考えてみよう。ジャーナリストがこのような権利を有していると考える人々は、この権利を、情報を収集することができるというジャーナリストたちの利益によって基礎づけているが、このような利益が価値をもつのは、それによってジャーナリストたちが、一般大衆に対して情報を与えることができるからに他ならない。つまり、ジャーナリストの利益は、社会の構成員全体にとって有用であるから価値をもつのであ
る。

 さらに、言論の自由といったような基本権の基礎である利益ですら、手段的な価値と見る人々がいる。スキャロンは、言論の自由の権利の基礎にある利益を三通りに区分している。すなわち、(1)話者の利益、(2)聴衆の利益、そして(3)第三者の利益である。第一の利益のみが、権利保持者の利益である。第二の利益(他者が自由に意思を伝達することによって聴衆がえられる利益)および第三の利益(意志の伝達が自由であるような社会に住むということに対して人々がもっている利益―たとえ彼らが個人的には他者との意志の伝達を望まないとしても―)は、自らの権利を有する権利保持者以外の人々の利益である。コモン・ローにおいては、表現の自由は―それが保護される場合には―公共の利益、すなわち三者の利益にもとづいて保護されるのが一般的である。したがって、公共の利益に対する寄与とは無関係に把握される権利保持者の利益だけでは、言論の自由の権利から通常導き出される広汎な義務や成約を、他者に負わせることを正当化するには不十分とみなされているのである。
 結論としては、(法人は別として)自らの福利がそれ自体として本来的な価値をもっている人々のみが権利を有しうる、というべきであろう。もっとも、その権利は、権利保持者が有する利益の手段的価値のうえにも基礎づけられうるのであるが。