アリストテレスの認識論について

 哲学はいつも本質的な部分は理解されず、細かいディテールばかりが注目されているように感じる。大事なのは部分的な事実ではなく、その事実を全体の中で位置づける枠組みであるのに。
 アリストテレスの認識論について、いわゆる経験論に近い立場で、プラトンの批判者という文章をよく見かけるのだけど、個人的には微妙。アリストテレスプラトンの批判者であるという点については否定しないけど、それだけではなく例えばプラトンの「メノン」での議論を意識していたし、アリストテレスを経験論者と考えてしまうのは、ライプニッツのいう「私たちの魂がなにか伝達される形象をうけとるとか、わたしたちの魂に扉や窓があると考え」てしまう悪い癖によるものではないかと思う。藤井義夫という人の本でも書いてあったけど、アリストテレスプラトンの批判者であると同時に後継者として理解するべきではなかろうか。