ジル・ドゥルーズ「襞―ライプニッツとバロック」第4章

第4章 十分な理由

アリストテレスが事前と事後とよんだもの、つまり先行性は、ここに時間の秩序がないけれども、複雑な観念であることが予感される。定義するもの、あるいは理由は定義されるものに先行しなければならない。それらが定義されるものの可能性を決定するからである。しかし、これはもっぱら「力能」[可能体]にしたがってのことであり、行為[現実態]にしたがってではない。反対に後者は、定義されるものの先行性を前提とするからである。まさにこのことから相互的包摂が生じ、あらゆる時間的関係は不在となる。

 述語とは、「旅の実現」であり、一つの行為、運動、変化であり、旅するものの状態ではないのだ。述語とは命題そのものである。「私は旅する」を「私は旅するものである」に還元できないように、「私は考える」を「私は考えるものである」に還元することはできない。思考とは恒常的な属性ではなく、一つの思考から別の思考へのたえまない移行としての述語なのであるから。

 述語が動詞であるということ、そして動詞が繋辞と属詞に還元できないということ、これこそはライプニッツの出来事の概念の基礎なのである。

 ついでライプニッツが出来事に関する第二の偉大な論理を作り出す。世界そのものが出来事であり、非物体的(=潜在的)述語として、一つの地にほかならないそれぞれの主語の中に包摂されているにちがいない。そこから各々がその観点に対応する様式を抽出するのだ(もろもろの想)。世界とは述語化そのものでああり、もろもろの方式は特別な述語であり、主語は世界の一つの相から別の相へと映るように、一つの述語から別の述語へと移るのだ。

 ライプニッツは厳密にいえば、運動に内的な統一性、あるいは能動的である変化の統一性、諸実態の位階から単なる広がりを排斥するような統一性を、実体について要求する。  なされている運動は、次にくる状態が「自然の力によって自発的に現在から」出てくるという意味で、瞬間における統一性にかかわり、またその持続の全体にとっての内的統一性にかかわる(実体の物理的指標)。そしてさらに根本的には、質的な変化は、一つの状態が瞬間の中を通過するようにし、その通過の全体を可能にする能動的な統一性にかかわるのである(心理的指標、知覚と欲求)。実体とはしたがって、出来事としての運動と、述語としての変化という二重の自発性を代表する。もし実体に関する真の論理的指標が包摂であるとしたら、それは実体が属性の主語ではなく、一つの内的統一性であり、一つの変化の能動的統一性だからである。

 スープを飲んでいるとき棒でたたかれる犬の魂において、乳を飲んでいるとき蜂に刺される赤ん坊だったシーザーの魂において、苦痛は自発的だといえるだろうか。しかし棒や蜂の一撃を受けるのは魂ではない。抽象されたものに執着するのではなく、諸系列を再構成しなければならない。棒の一撃とともに始まるのではない。背後から棒をもった男が近づいてきて、犬の体を打ちのめそうとして棒を振り上げたのである。この複雑な運動は一つの内的統一性をもっている。つまり苦痛は唐突に快楽に引き続いたのではなく、無数の小さな知覚によって用意されていた。足音、敵対する人間の匂い、振り上げられる棒の印象、要するに感覚されていない「あらゆる不安」の全体があり、苦痛はそこから「自発的に」生じることになるのだ。まるで先行するもろもろの変容を統合する自然の力によるように。