チャールズ・サンダース・パース「4つの能力の否定から導かれる諸所の帰結」

 いかなる蓋然的立論においても、その妥当性に不可欠な知識というものがある。そうした知識が欠如している場合、ある問いに関わっていることになる。そしてその問いの有様は当の立論自身によって限定を受ける。その問いとは、他のすべての問いと同様、特定の対象が特定の性質を持っているのかどうかというものである。ここから、そうした知識の欠如には、二つの場合があることになる。第一に前提により特定の性質を持っている対象があるとして、このとき、この対象以外の他の対象も同じ特定の性質を持つことがあるのか。第二に、前提により特定の対象に固有の性質があるとして、このとき、当の対象の要件であるとはかぎらない他の性質が同じ対象に属するということはあるのか。第一の場合、推論過程は、あたかも特定の性質を有する対象すべてが知られているかのように展開されていく。そして、これが帰納である。第二の場合、推論過程は、あたかもある対象もしくはクラスが有する傾向特性に不可欠の性質がすべて知られているように展開していく。そして、これが仮説形成である。

 仮説形成の機能とは、統一体をなしているわけではない諸所の属性が厖大な系列をなしているとして、この系列に変わって、これら属性をすべて含み、かつ、(おそらく)その他の無数の属性をも含むような単一(もしくは、ごく少数)の属性で代用することである。仮説形成は、それゆえ多様性の単一性への還元である。

 一つの概念として現れている心の状態を考えてみよう。心の状態が一つの概念でありうるのは、意味、つまり、論理学でいう内包をもつことによる。概念というものが、何らかの対象に対して適用可能だとすれば、それは、対象が、当の概念の内包に含まれる特性を有するからである。ところで、ある思考の論理学内包は、通常、その思考の中に含まれる思考から成り立っている。しかし、諸所の思考は出来事であり、心の様々な作用である。二つの思考は、時間の流れの中では別々の出来事である。したがって、一方の思考が他方の思考の中にあるなどということは、全く不可能である。もちろん、人によっては、まったく似通った思考が複数ある場合、これらをすべて一つの思考とみなし、あるいは、ある思考が別の思考を含むということを、他の思考とまったく似通った思考を含むという意味で解す向きもあろう。だが、二つの思考が似ているというのは、いったい、どのようにして可能なのか。二つの思考が似ているとみなされるのは、両者が心の中で比較され、一緒にされる場合のみである。思考というものは心の中以外には存在しない。心の中にあるとみなされる場合にのみ、思考は存在するのである。したがって、二つの思考は心の中で一緒にされないかぎり、似たものとしてあるなどということはありえない。しかし、二つの思考の存在ということになると、その二つは、時間の隔たりによって、別々のものとなっているわけである。我々は、ともすれば、過去のある思考と似た思考を創り上げることが出来ると創造しがちである。その上で、今の思考を過去の思考に組み合わせ、あたかも、この過去の思考が今なお我々の心に残存していると考えてしまう。しかし、考えてみれば明白なはずである。ある思考が別の思考と似ている、あるいは、それを表しているという認識は、無媒介な直接的知覚からは導き出しえないのであって、このような認識は一つの仮説形成と言わねばならない。したがって、このような表象機能を有する思考の形成は、意識の背後にある実在的で有効な力に依存しているのであって、単に心の中での比較対象に依存するわけではない。それゆえ、ある概念が別の概念に含まれると我々がいうとき、その意味するところは、通常一方の概念を他方の概念によって表象するということでなければならない。いいかえれば、概念間の包摂関係が意味しているのは、我々が、ある特殊な判断を形成し、その判断の中で、主語に一方の概念を指示させ、述語に他の概念を指示させるということにほかならない。

 思考は、それ自体では独特のものなのである。他のいかなるものともまったく比較できないものは、すべて、まったく説明不可能である。というのも説明とは、事物を一般的諸法則の下に、あるいは、自然界の諸所の類いの下に包摂することだからである。

 今現れている実際の思考(つまり無媒介な単なる感じ)などというものにはいかなる意味もないし、いかなる知的価値もない。というのは意味や価値は、実際に思考されている事柄の中にはないからである。意味や価値の在り処は、表象機能が作用している場合、後続する思考によって何かと結びつけられることになる。意味や価値の在り処は、この結びつけられる事柄の中なのである。

 直接的で無媒介なもの(したがって、それ自体では媒介を被らない-つまり、分析不可能なもの、説明不可能なもの、理解不可能なもの)は、我々の生涯を通じて、一つの連続的な流れをなして通り過ぎていくのである。この流れが意識の総計なのであり、これを媒介することが、すなわち意識の連続性をなすのであり、この媒介は、意識の背後にある実在的な効力によって、作用するのである。

 我々が見出すのは、注意というものが、実際のところ、後続する思考に対して絶大な影響を及ぼすということである。第一に、注意は記憶に強い影響を及ぼす。当初払われた注意が強ければ強いほど、思考が記憶に残る期間も長くなる。第二に、注意が強ければ強いほど、後続する思考との結合が密接になり、思考の論理的連結が正確になる。第三に、注意によって忘れてしまった思考を想い出すことができる。こうした事実からわかるのは、注意とはある時点の思考を別の時点の思考と結びつける力だということである。あるいは、記号としての思考という概念を援用していうなら、注意とは、ある〈思考-記号〉の純粋指示用法なのである。

 注意が生ずるのは、同じ現象が異なる機会に繰り返し現れるとき、つまり、同じ述語属性が異なる主語に繰り返し現れるときである。たとえば、Aが何らかの性質を持ち、Bが同じ性質を持ち、そしてCも同じ性質を持つ、こうした事態を我々は目にする。このことが我々の注意を惹きつけ、その結果、我々は「これらのものはこの性格を持っている」と述べるわけである。こうしてみれば、注意とは帰納の作用ということになる。

 注意は神経系に影響を及ぼす。こうした影響は習慣、あるいは神経連合である。ある習慣が生まれのは、どういうときかといえば、たとえば、mという何らかの作用がa,b,cという複数の機会に遂行されるという感覚を我々が経験し、その後でこれらa,b,cを特殊ケースとして含む一般的出来事lが起こるたびに、我々はmという作用を行うようになる場合である。すなわち「a,b,cいずれの事例もmの事例である」という認識によって、「lという一般的事例いずれの場合であってもmの事例である」という認識が限定されるわけである。かくして、習慣形成とは一つの帰納であり、したがって、必然的に注意もしくは抽象と結びついているのである。